・・・ちなみに君は生涯髭を蓄えず頭も五分刈であった。着物などには一切構わず、時にはひどい靴をはいていた。住宅を建てた時でも色々な耐震的の工夫をして金目をかけたが、見かけの華美を求める心はなかったようである。 末広君の大学における講義にも特徴が・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・それでも家には小金の貯えも少しはあって、十六七の娘に三味線を仕込などしている。遊芸をみっちり仕込んだ嫖致の好い姉娘は、芝居茶屋に奉公しているうちに、金さんと云う越後産の魚屋と一緒になって、小楽に暮しているが、爺さんの方へは今は余り寄りつかな・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・わたくしはかつて婦女を後堂に蓄えていたころ、絶えずこの事を考えていた。今日にあっても、たまたま蘭燈の影暗きところに身を置くような時には、やはりこの事を考える。 繁殖を望まずしてその行為をなすは男子の弱点である。無用の徒事である。悪事であ・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・剛き髪を五分に刈りて髯貯えぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦し了って、からからと笑いながら、室の中なる女を顧みる。 竹籠に熱き光りを避けて、微かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・左れば夫の婬乱不品行は実証既に明白にして、此事果して妻たる者の身に関係なくして、隣の富家翁が財産を蓄え土蔵を建築したるの類に比較す可きや否や。隣家の貧富は我家の利害に関係なしと雖も、夫の婬乱不品行は直接に妻の権利を害するものにして、固より同・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・蜜柑は皮の厚いのに酸味が多くて皮の薄いのに甘味が多い。貯えた蜜柑の皮に光沢があって、皮と肉との間に空虚のあるやつは中の肉の乾びておることが多い。皮がしなびて皺がよっているようなやつは必ず汁が多くて旨い。○くだものの嗜好 菓物は淡泊なもの・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・実る自己完成の果実は、千万人の喉をうるおわす宙を蓄えて居る、と。 宮本百合子 「大いなるもの」
・・・候えば、年末に相迫り相果て候を見られ候方々、借財等のため自殺候様御推量なされ候事も可有之候えども、借財等は一切無き某、厘毛たりとも他人に迷惑相掛け申さず、床の間の脇、押入の中の手箱には、些少ながら金子貯えおき候えば、荼だびの費用に御当て下さ・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・鯛は太股に跨られたまま薔薇色の女のように観念し、鮪は計画を貯えた砲弾のように、落ちつき払って並んでいた。時々突っ立った太股の林が揺らめくと、射し込んだ夕日が、魚の波頭で斬りつけた刃のように鱗光を閃めかした。 彼は魚の中から丘の上を仰いで・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・酒粕に漬けた茄子が好きだというので、冬のうちから、到来物の酒粕をめばりして、台所の片隅に貯えておき、茄子の出る夏を楽しみに待ち受ける、というような、こまかい神経のくばり方が、種々雑多な食物の上に及んでいたばかりでなく、着物や道具についてもそ・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫