・・・その日の中を向こうへ突きって、休所へはいったら、誰かが蕎麦饅頭を食えと言ってくれた。僕は、腹がへっていたから、すぐに一つとって口へ入れた。そこへ大学の松浦先生が来て、骨上げのことか何か僕に話しかけられたように思う。僕は、天とうも蕎麦饅頭もし・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・が、まさか日本橋からここまで蝶が跡をつけて、来ようなどとは考えませんから、この時もやはり気にとめずに、約束の刻限にはまだ余裕もあろうと云うので、あれから一つ目の方へ曲る途中、看板に藪とある、小綺麗な蕎麦屋を一軒見つけて、仕度旁々はいったそう・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・興酣なる汐時、まのよろしからざる処へ、田舎の媽々の肩手拭で、引端折りの蕎麦きり色、草刈籠のきりだめから、へぎ盆に取って、上客からずらりと席順に配って歩行いて、「くいなせえましょう。」と野良声を出したのを、何だとまあ思います?・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
「――鱧あみだ仏、はも仏と唱うれば、鮒らく世界に生れ、鯒へ鯒へと請ぜられ……仏と雑魚して居べし。されば……干鯛貝らいし、真経には、蛸とくあのく鱈――」 ……時節柄を弁えるがいい。蕎麦は二銭さがっても、このせち辛さは、明日・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・景気よく馬肉で呷った酒なら、跳ねも、いきりもしようけれど、胃のわるい処へ、げっそり空腹と来て、蕎麦ともいかない。停車場前で饂飩で飲んだ、臓府がさながら蚯蚓のような、しッこしのない江戸児擬が、どうして腹なんぞ立て得るものかい。ふん、だらしやな・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・タウコギは末枯れて、水蕎麦蓼など一番多く繁っている。都草も黄色く花が見える。野菊がよろよろと咲いている。民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「ねい伯父さん何か上げたくもあり、そばに居て話したくもありで、何だか自分が自分でないようだ、蕎麦饂飩でもねいし、鰌の卵とじ位ではと思っても、ほんに伯父さん何にも上げるもんがねいです」「何にもいらねいっち事よ、朝っぱら不意に来た客に何・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・「また、あの青木と蕎麦屋へ行ったのだろう」お君が長い顎を動かした。蕎麦屋と聴けば、僕も吉弥に引ッ込まれたことがあって、よく知っているから、そこへ行っている事情は十分察しられるので、いいことを聴かしてくれたと思った。しかし、この利口ではあ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・酒、酒、何であの時、蕎麦屋にでも飛込んで、景気よく一二本も倒さなかったのだろう。 五月十四日 寂寥として人気なき森蔭のベンチに倚ったまま、何時間自分は動かなかったろう。日は全く暮れて四囲は真暗になったけれど、少しも気がつかず、ただ腕・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・このあいだ、昼間があまり忙しいので、夜なべに蕎麦をこなしたのだと母は話している。 祖父も百姓だった。その祖父も、その前の祖父も百姓だったらしい。その間、時には、田畑を売ったこともあり、また買ったこともあるようだ。家を焼かれてひどく困った・・・ 黒島伝治 「小豆島」
出典:青空文庫