・・・その時もはや、あの不可解な猫の姿は、私の視覚から消えてしまった。町には何の異常もなく、窓はがらんとして口を開けていた。往来には何事もなく、退屈の道路が白っちゃけてた。猫のようなものの姿は、どこにも影さえ見えなかった。そしてすっかり情態が一変・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・此処からは、何処にも私の懐しい自然全景を見出すことは出来ない。視覚の束縛のみではない。心がつき当る。東を向いても、西を向いても。豊かに律を感じて拡がろうとする魂が、彼方此方で遮られて、哀れな戸惑いをする。ああ、野原、野原。私の慾しいものは、・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・華やかな桃色が走馬燈のように視覚にちらつき、いかにも女性的な興奮とノンセンスな賑わいが場内を熱くする。―― 一列に舞台の上できまり、さて桜の枝をかざして横を向いたり、廻ったり、単純な振りの踊りが始ったが、その中から顔馴染を見出すのは、案・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・「せめて、視覚でも満足させたいな。これはまあ、どうしたことだ」「――お互よ、向うでも我々を見てそう云っているに違いないわ」 陽気になりたい気持がたっぷりなのに、周囲がそれに適せず、妙にこじれそうにさえなった時であった。我々はふと・・・ 宮本百合子 「三鞭酒」
・・・而も、一方は無限の視覚、聴覚、味覚を以て細かく 細かく、鋭く 鋭くと生存を分解する、又組立てる。 考 創作をするにも種々な動機があると思う。或人はイブセンの如く燃え立つ自己の正義感と理想とに・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・舞台の上の劇的感情の高揚につれ、赤い大きい風車はグルリと舞台の上でまわり出し、遺憾なく波だつ感情の動的な、視覚的表現の役に立てられている。―― メイエルホリドは昔、モスクワ芸術座にいたことがあった。そこを出て、一九〇〇年代がはじまったば・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
・・・ 非常に鋭敏になった聴覚と視覚とが、かつては童話的興味の枯れることない源泉となっていた自然現象の全部のうちに、現実を基礎としたいろいろの神秘を見出し、自分自身を三人称で考える癖が増して来た。「彼女は今、太い毛糸針のように光る槇の葉を・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・派手に着飾って見た眼には美しいが、指をふれて見ると碌なものじゃないという傾向と、じみな、視覚にはそんなに衝動を与えない代りに丈夫で永持のする高価なものという二つの服装分類は、そのどちらかに依って、外出する機会を多く持っている者か、内に許り閉・・・ 宮本百合子 「二つの型」
手提鞄の右肩に赤白の円い飛行会社のレベルがはられた。「航空ユニオン。27」廻転するプロペラーの速力を視覚に印象させるような配列法でこまかく、赤白、赤白。にとられたものです、それからこれが昨年の。真中に坐ってらっしゃるの・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・ けれどもこの穏やかさは、視覚に集中した心が聴覚の方へ中心を移す一つの中間状態に過ぎない。僧侶たちが、仏を礼讃する心持ちにあふれながら読誦するありがたいお経は、再び徐々に、しかし底力強く、彼らの血を湧き立たせないではおかないのである。彼・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫