・・・もう空は日が見えなくなって、重くろしい、落ちかかりそうな、息の詰まるような一面の灰色になっている。老人は丘を下りて河の方へ歩き出した。さて岸の白楊の枯木に背中を寄せかけて坐った。その顔には決断の色が見えている。槌で打ち固めたような表情が見え・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ひところはやった玄米パン売りの、メガフォーンを通して妙にぼやけた、聞くだけで咽喉の詰まるような、食欲を吹き飛ばすようなあのバナールな呼び声も、これは幸いにさっぱり聞かなくなってしまった。 つい二三年前までは毎年初夏になるとあの感傷的な苗・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・女は小羊を覘う鷲の如くに、影とは知りながら瞬きもせず鏡の裏を見詰る。十丁にして尽きた柳の木立を風の如くに駈け抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼の鎧に満身の日光を浴びて、同じ兜の鉢金よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみさんさんと靡かしている。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 吉里は悲しくもあり、情なくもあり、口惜しくもあり、はかなくも思うのである。詰まるところは、頼りないのが第一で、どうしても平田を忘れることが出来ないのだ。 今日限りである、今朝が別れであると言ッた善吉の言葉は、吉里の心に妙にはかなく・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 右第一より七に至るまで種々の文句はあれども、詰る処婦人の権力を取縮めて運動を不自由にし、男子をして随意に妻を去るの余地を得せしめたるものと言うの外なし。然るに女大学は古来女子社会の宝書と崇められ、一般の教育に用いて女子を警しむるのみな・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・家の相続男子に嫁を貰うか、又は娘に相続の養子する場合にも、新旧両夫婦は一家に同居せずして、其一組は近隣なり又は屋敷中の別戸なり、又或は家計の許さゞることあらば同一の家屋中にても一切の世帯を別々にして、詰る所は新旧両夫婦相触るゝの点を少なくす・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・河童とは詰まるところ日本の前時代的な物の怪なのである。 火野葦平の河童は、一九四〇年の日本に現れて、「土と兵隊」「石炭の黒きは」の後に現れて、何と自足した自身の伝説の原形をさらしていることだろう。実際上は歴史的な経験を生きた筈の一個の作・・・ 宮本百合子 「日本の河童」
・・・ 聖人というのは支那の儒教の聖人のことなのだが、女の生涯は、この七箇条を見たばかりでも、何と息も詰るばかりの有様だろう。嫁、妻として求められているものは絶対の従順と忍耐とであって、最大の恥辱とされている七去の条件にしろ、それらはあくまで・・・ 宮本百合子 「三つの「女大学」」
・・・人々はかれが党類を作って、組んで手帳を返したものとかれを詰るのであった。 かれは弁解を試みたが、卓の人はみんな笑った。 かれはその食事をも終わることができなく、嘲笑一時に起こりし間を立ち去った。 かれは恥じて怒って呼吸もふさがら・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・そして自分の人格の惨めさに息の詰まるような痛みを感ずる。 しかしやがて理解の一歩深くなった喜びが痛みのなかから生まれて来る。私は希望に充ちた心持ちで、人生の前に――特に偉人の内生の前に――もっともっと謙遜でなくてはならないと思う。そして・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫