・・・ 五 谷間の白樺のかげに、穴が掘られてあった。傍に十人ばかりの兵卒が立っていた。彼等は今、手にしているシャベルで穴を掘ったばかりだった。一人の将校が軍刀の柄に手をかけて、白樺の下をぐる/\歩いていた。口元の引きしま・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 風に吹きつけられた雪が、窓硝子を押し破りそうに積りかかっていた。谷間の泉から湧き出る水は、その周囲に凍てついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度、地下から突き出て来るように、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日の方がより高くもれ上って来た・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 中棚とはそこから数町ほど離れた谷間で、新たに小さな鉱泉の見つかったところだ。 浅間の麓に添うた傾斜の地勢は、あだかも人工で掘割られたように、小諸城址の附近で幾つかの深い谷を成している。谷の一つの浅い部分は耕されて旧士族地を取囲いて・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 不景気、不景気と言いながら、諸物価はそう下がりそうにもないころで、私の住む谷間のような町には毎日のように太鼓の音が起こった。何々教とやらの分社のような家から起こって来るもので、冷たい不景気の風が吹き回せば回すほど、その音は高く響け・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ こう言って、三人を或谷間へつれていき、そこに生えている、薬になる草や木を一々おしえておいて、ふたたび湖水へかえりました。三人はそのおかげで、国中で一ばんえらいお医者さまになり王さまから位と土地とをもらって、一生らくらくとくらしました。・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
・・・それが蜜柑畑の向うへはいってしまうと、しばらく近くには行くものの影が絶える。谷間谷間の黒みから、だんだんとこちらへ迫ってくる黄昏の色を、急がしい機の音が招き寄せる。「小母さんは何でこんなに遅いのでしょうね」と女の人は慰めるようにいう。あ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・の中の作品のほとんど全部を収録し、それから一つ「谷間」をいれた。「谷間」は、その「夜ふけと梅の花」には、はいっていないのであるが、ほぼ同時代の作品ではあり、かつまたページ数の都合もあって、この第一巻にいれて置いた。 これらの作品はすべて・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ そとは、いくらか明るくなっていて、まっ白な山腹が、すぐ眼のまえに現われた。谷間を覗いてみると、もやもや朝霧の底に一条の谷川が黒く流れているのも見えた。「おそろしく寒いね。」嘘である。そんなに寒いとは思わなかったのだが、「お酒、のみ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・轡を並べて遠乗をして、美しい谷間から、遥にアルピイの青い山を望んだこともある。 町に育って芝居者になったドリスがためには、何もかも目新しい。その知らない事を言って聞せるのが、またポルジイがためには面白い。ドリスが珍らしがるのは無理もない・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 星野温泉はちょっとした谷間になっているが、それを横切って飛ぶことがしばしばあった。そういう場合には反響によって昼間はもちろんまっ暗な時でも地面の起伏を知りまた手近な山腹斜面の方向を知る必要がありそうに思われる。鳥は夜盲であり羅針盤をも・・・ 寺田寅彦 「疑問と空想」
出典:青空文庫