・・・ 女はまだ見た所、二十を越えてもいないらしい。それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、忙しそうにビルを書いている。額の捲き毛、かすかな頬紅、それから地味な青磁色の半襟。―― 陳は麦酒を飲み干すと、徐に大きな体を起して、帳・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・しかしながら、私の生まれかつ育った境遇と、私の素養とは、それをさせないことを十分意識するがゆえに、私は、あえて越ゆべからざる埓を越えようは思わないのだ。私のこんな気持ちに対する反証として、よくロシアの啓蒙運動が例を引かれるようだ。ロシアの民・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・予はただこの北海の天地に充満する自由の空気を呼吸せんがために、津軽の海を越えた。自由の空気! 自由の空気さえ吸えば、身はたとえ枯野の草に犬のごとく寝るとしても、空長しなえに蒼く高くかぎりなく、自分においていささかの遺憾もないのである。 ・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ いつぞやらん、その松任より、源平島、水島、手取川を越えて、山に入る、辰口という小さな温泉に行きて帰るさ、件の茶屋に憩いて、児心に、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる小さき部屋に、黒髪の乱れたる、若き、色の白き、痩せたる女、差俯向き・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 雪やこんこん、あられやこんこんと小褄にためて里の小娘は嵐の吹く松の下に集って脇明から入って来る風のさむいのもかまわず日のあんまり早く暮れてしまうのをおしんで居ると熊野を参詣した僧が山々の□(所を越えてようやくようよう麓のここまで下って・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・ブリッジを渡る暇もないのでレールを踏越えて、漸とこさと乗込んでから顔を出すと、跡から追駈けて来た二葉亭は柵の外に立って、例の錆のある太い声で、「芭蕉さまのお連れで危ない処だった」といった。その途端に列車は動き出し、窓からサヨナラを交換したが・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・外国というと、どこでしょうかと考えながら聞きますと、あの広い広い太平洋の波を越えて、そのあちらにある国からきたのだと先生はいわれました。 そのとき、露子は、いうにいわれぬ懐かしい、遠い感じがしまして、このいい音のするオルガンは船に乗って・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ * * * 越えて二日目、葬式は盛んに営まれて、喪主に立った若後家のお光の姿はいかに人々の哀れを引いたろう。会葬者の中には無論金之助もいたし、お仙親子も手伝いに来ていたのである。 で、葬式の済むまで・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 乗って来た汽車をやり過してから、線路を越え、誰もいない改札口を出た。青いシェードを掛けた電球がひとつ、改札口の棚を暗く照らしていた。薄よごれたなにかのポスターの絵がふと眼にはいり、にわかに夜の更けた感じだった。 駅をでると、いきな・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・遮莫おれにしたところで、憐しいもの可愛ものを残らず振棄てて、山超え川越えて三百里を此様なバルガリヤ三界へ来て、餓えて、凍えて、暑さに苦しんで――これが何と夢ではあるまいか? この薄福者の命を断ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫