・・・ 壱岐殿坂の中途を左へ真砂町へ上るダラダラ坂を登り切った左側の路次裏の何とかいう下宿へ移ってから緑雨は俄に落魄れた。落魄れたといっては語弊があるが、それまでは緑雨は貧乏咄をしても黒斜子の羽織を着ていた。不味い下宿屋の飯を喰っていても牛肉・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ ある夜、人は牛女が町の暗い路次に立って、さめざめと泣いているのを見たといいます。しかしその後、だれひとり、また牛女の姿を見たものがありません。牛女はどうしたことか、もはやこの町にはおらなかったのです。 その年以来、冬になっても、ふ・・・ 小川未明 「牛女」
・・・ 住居は愛宕下町の狭い路次で、両側に長屋が立っています中のその一軒でした。長屋は両側とも六軒ずつ仕切ってありましたが、私の住んでいたのは一番奥で、すぐ前には大工の夫婦者が住んでいたのでございます。 長屋の者は大通りに住む方とは違いま・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・「五月十二日、鎌倉を立ちて甲斐の国へ分け入る。路次のいぶせさ、峰に登れば日月をいただく如し。谷に下れば穴に入るが如し。河たけくして船渡らず、大石流れて箭をつくが如し。道は狭くして繩の如し。草木繁りて路みえず。かかる所へ尋ね入る事、浅から・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・午前九時知る人をたずねしに、言葉の聞きちがえにて、いと知れにくかりければ、いそがずはまちがえまじを旅人の あとよりわかる路次のむだ道 二十一日、この日もまた我が得べき筋の金を得ず、今しばらく待ちてよとの事に逗・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・不知不識其方へと路次を這入ると道はいよいよ狭くなって井戸が道をさえぎっている。その傍で若い女が米を磨いでいる。流しの板のすべりそうなのを踏んで向側へ越すと柵があってその上は鉄道線路、その向うは山の裾である。其処を右へ曲るとよう/\広い街に出・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・ 街路に向かった窓の内側にさびしい路次のようになって哲学や宗教や心理に関する書棚が並んでいる。 不思議な事に自分は毎年寒い時候が来ると哲学や心理がかった書物が読みたくなる。いったい自分の病弱な肉体には気候の変化が著しく影響する。それ・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・道太は路次の前に立って、寂のついた庭を眺めていた。この町でも別にいいというほどの庭ではなかったけれど、乾いた頭脳には、じじむさいような木石の布置が、ことに懐かしく映るのであった。「少し手入れをするといいんですけれど」辰之助はそう言って爪・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 四五人のスキャップを雇い込んで、××町の交番横に、トラックを待たせておいて、モ一人の家へ行こうと、屈った路次で、フト、二人の少年工を発見出したのだ。幸いだと思って、「オイ、三公、義公」と呼んだら、二人は変装している自分を、知ってか知ら・・・ 徳永直 「眼」
・・・ 隣へ通う路次を境に植え付けたる四五本の檜に雲を呼んで、今やんだ五月雨がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団を捨てて椽より両足をぶら下げている。「あの木立は枝を卸した事がないと見える。梅雨もだいぶ続いた。よう飽きもせずに降るの」と独り言の・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫