・・・ 僕等は弘法麦の茂みを避け避け、(滴をためた弘法麦の中へうっかり足を踏み入れると、ふくら脛の痒そんなことを話して歩いて行った。気候は海へはいるには涼し過ぎるのに違いなかった。けれども僕等は上総の海に、――と言うよりもむしろ暮れかかった夏・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・「三浦は贅沢な暮しをしているといっても、同年輩の青年のように、新橋とか柳橋とか云う遊里に足を踏み入れる気色もなく、ただ、毎日この新築の書斎に閉じこもって、銀行家と云うよりは若隠居にでもふさわしそうな読書三昧に耽っていたのです。これは勿論・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・それも憚らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然と口を噤んでいました。「返事をしないか。――しないな。好し。し・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・ 翌日から安子は折井と一緒に浅草を歩き廻り、黒姫団の団員にも紹介されて、悪の世界へ足を踏み入れると、安子のおきゃんな気っぷと美貌は男の団員たちがはっと固唾を飲むくらい凄く、団員は姐御とよんだ。気位の高い安子はけちくさい脅迫や、しみったれ・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・先ず彼女は、若々しい希望に満ちた大望から、自分のよしと思う運命の方向に自分を拡大しようと決心して、人生の中に足を踏み入れる。種々雑多な苦痛や喜悦や、恍惚が、彼女の囲りを取囲むだろう。その中に、何か一つの重大な問題に面接しなければならない事に・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
出典:青空文庫