・・・その台所道具の象徴する、世智辛い東京の実生活は、何度今日までにお君さんへ迫害を加えたか知れなかった。が、落莫たる人生も、涙の靄を透して見る時は、美しい世界を展開する。お君さんはその実生活の迫害を逃れるために、この芸術的感激の涙の中へ身を隠し・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・何でも、恐いか、辛いかしてきっと沖で泣いたんだよ。この人は、」とおかしそうに正向に見られて、奴は、口をむぐむぐと、顱巻をふらりと下げて、「へ、へ、へ。」と俯向いて苦笑い。「見たが可い、ベソちゃんや。」 と思わず軽く手をたたく。・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・――いささか気障ですが、うれしい悲しいを通り越した、辛い涙、渋い涙、鉛の涙、男女の思迫った、そんな味は覚えがない、ひもじい時の、芋の涙、豆の涙、餡ぱんの涙、金鍔の涙。ここで甘い涙と申しますのは。――結膜炎だか、のぼせ目だか、何しろ弱り目に祟・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・それでも西洋料理は別格通でなかったと見えて、一向通もいわずに塩の辛い不味い料理を奇麗に片附けた。ドダイ西洋料理を旨がる田舎漢では食物の咄は出来ないというのが緑雨の食通であったらしかった。 本所を引払って、高等学校の先きの庭の広いので有名・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・この最終の自筆はシドロモドロで読み辛いが、手捜りにしては形も整って七行に書かれている。中には『回外剰筆』にある通り、四行五行に、大きく、曲りくねって字間も一定せず、偏と旁が重なり合ったり離れ過ぎたりして一見盲人の書いたのが点頭かれるのもある・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・この冬の真最中に梨の実を取って来いと言われるのは、大江山の鬼の酢味噌が食べたいと言われるより、足柄山の熊のお椀が吸いたいと言われるより辛いというような顔つきをしました。 爺さんは暫く口の中で、何かぶつぶつ言ってるようでしたが、やがて何か・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・それに、ほかの病気なら知らず、肺がわるいと知られるのは大変辛い。 もうひとつ、私の部屋の雨戸をあけるとすれば、当然隣りの部屋もそうしなくてはならない。それ故、一応隣室の諒解を求める必要がある。けれど、隣室の人たちはたぶん雨戸をあけるのを・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ しかし、そんな悲しい武田さんを想像することは今は辛い。やはり、武田麟太郎失明せりというデマを自分で飛ばしていた武田さんのことを、その死をふと忘れた微笑を以て想いだしたい。失明したというのは、実はメチルアルコールを飲み過ぎたのだ。やにが・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・ええ、憶えば辛い。憶うまい憶うまい。むかしの幸福。今の苦痛……苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を憶出せば自然と今の我身に引比べられて遣瀬無いのは創傷よりも余程いかぬ! さて大分熱くなって来たぞ。日が照付けるぞ。・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・小僧は、「あまり労働が辛いから……」という言葉に力を入れて繰返した。そして途中乞食をしながら、ほとんど二十日余りもかかって福島まで歩いてきたのだが、この先きは雪が積っていて歩けぬので、こうして四五日来ここの待合室で日を送っているのだというの・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫