・・・上品で端麗な若い青年の肉体が近寄るに従って、クララは甘い苦痛を胸に感じた。青年が近寄るなと思うとクララはもう上気して軽い瞑眩に襲われた。胸の皮膚は擽られ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押出された。胸から下の肢体は感触を失ったかと思うほどこ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・と、みんなは、くびを差し伸ばして黒いもののこの岸に近寄るのを待っていました。 だんだんとその黒いものは近づいたのであります。すると、小さな船で、それには三人のものが乗っていたのであります。やっとその船は汀に着きました。船から下りた三人の・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・「あれは鉄砲だよ。近寄ると、ズドンといって、みんな殺されてしまうのだよ。」と、親すずめは子すずめにいいきかせました。 ところが、いつかの物忘れのからすがやってきて、かがしの上に止まりました。「どうしたのだろうな。」と、おじいさん・・・ 小川未明 「からすとかがし」
・・・道の両側の家がまだ燃えているので、熱いやら、けむいやら、道を歩くのがひどく苦痛であったが、さまざまに道をかえて、たいへんな廻り道をしてどうやら家の町内に近寄る事が出来た。残っていたら、どんなにうれしいだろう。いや、しかし、絶対にそんな事は無・・・ 太宰治 「薄明」
・・・トナカイが死地に陥って敢然たる攻勢を取り近寄る犬どもを踏みつぶそうとする光景は獣類とはいえ悲壮である。いかなる名優の活劇でも、これに比べてはおそらく茶番のようなものである。それからの後の場面で荒涼たる大雪原を渡ってくるトナカイの大群の実写は・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・雌が鳴き声をたよりにして、近寄るにははなはだ不便である。 この鳴き声の意味をいろいろ考えていたときにふと思い浮かんだ一つの可能性は、この鳥がこの特異な啼音を立てて、そうしてその音波が地面や山腹から反射して来る反響を利用して、いわゆる「反・・・ 寺田寅彦 「疑問と空想」
・・・敵軍が近寄るのでフィンが呼びさますと、「もう少し夢のつづきを見せてくれればよかったのに」と言ってその夢の話をして聞かせる。高い高い梯子が立ってその上に天の戸が開けていた、王がそれを登りつめて最後の段に達した時に起こされたのだと言う。フィンは・・・ 寺田寅彦 「春寒」
・・・中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに術なし。たとい忌わしき絆なりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣りなりき。囓まるるとも螫さるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ゴーゴン・メジューサとも較ぶべき顔は例に由って天地人を合せて呪い、過去現世未来に渉って呪い、近寄るもの、触るるものは無論、目に入らぬ草も木も呪い悉さでは已まぬ気色である。愈この盾を使わねばならぬかとウィリアムは盾の下にとまって壁間を仰ぐ。室・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・モスクワへ侵入軍が迫るという時、私はどんな憤りを以って侵入者の近寄る足音を想像したろう。そして、いつも想った。私がモスクワにいたころ、逢った幾人かの作家たち、ピオニェールたち、労働者たちは今日、どんな戦線にたっているであろうかと。 一九・・・ 宮本百合子 「新世界の富」
出典:青空文庫