・・・常子はその姿を透かして見ながら、もう一度恐る恐る繰り返した。「何か、……何か御用でございますか?」 男はやっと頭を擡げた。「常子、……」 それはたった一ことだった。しかしちょうど月光のようにこの男を、――この男の正体を見る見・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・―― 僕の目を覚ました時にはもう軒先の葭簾の日除けは薄日の光を透かしていた。僕は洗面器を持って庭へ下り、裏の井戸ばたへ顔を洗いに行った。しかし顔を洗った後でも、今しがた見た夢の記憶は妙に僕にこびりついていた。「つまりあの夢の中の鮒は識域・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・それが今不意に目の前へ、日の光りを透かした雲のような、あるいは猫柳の花のような銀鼠の姿を現したのである。彼は勿論「おや」と思った。お嬢さんも確かにその瞬間、保吉の顔を見たらしかった。と同時に保吉は思わずお嬢さんへお時儀をしてしまった。 ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・父は鼾きをかかなかったかしら、――慎太郎は時々眼を明いては、父の寝姿を透かして見ながら、そんな事さえ不審に思いなぞした。 しかし彼のまぶたの裏には、やはりさまざまな母の記憶が、乱雑に漂って来勝ちだった。その中には嬉しい記憶もあれば、むし・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ しかし老女が一瞬の後に、その窓から外を覗いた時には、ただ微風に戦いでいる夾竹桃の植込みが、人気のない庭の芝原を透かして見せただけであった。「まあ、気味の悪い。きっとまた御隣の別荘の坊ちゃんが、悪戯をなすったのでございますよ。」・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を透かして見た。が、そこには不相変、仄暗い薔薇や金雀花のほかに、人影らしいものも見えなかった。 × × × オルガンティノは翌日の・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・それは大抵硝子の中にぎらぎらする血尿を透かしたものだった。「こう云う体じゃもう駄目だよ。とうてい牢獄生活も出来そうもないしね。」 彼はこう言って苦笑するのだった。「バクニインなどは写真で見ても、逞しい体をしているからなあ。」・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ 汀の蘆に潜むか、と透かしながら、今度は心してもう一歩。続いて、がたがたと些と荒く出ると、拍子に掛かって、きりきりきり、きりりりり、と鳴き頻る。 熟と聞きながら、うかうかと早や渡り果てた。 橋は、丸木を削って、三、四本並べたもの・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 鉈豆煙管を噛むように啣えながら、枝を透かして仰ぐと、雲の搦んだ暗い梢は、ちらちらと、今も紫の藤が咲くか、と見える。 三「――あすこに鮹が居ます――」 とこの高松の梢に掛った藤の花を指して、連の職人が、い・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ と身を横に、蔽うた燈を離れたので、玉ぼやを透かした薄あかりに、くっきり描き出された、上り口の半身は、雲の絶間の青柳見るよう、髪も容もすっきりした中年増。 これはあるじの国許から、五ツになる男の児を伴うて、この度上京、しばらくここに・・・ 泉鏡花 「女客」
出典:青空文庫