・・・酒のない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をむしッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙を覘ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損なッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・だから隙があって道楽に人生を研究するんでなくて、苦悶しながら遣っていたんだ。私が盛に哲学書を猟ったのも此時で、基督教を覘き、仏典を調べ、神学までも手を出したのも、また此時だ。 全く厭世と極って了えば寧そ楽だろうが、其時は矛盾だったから苦・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・あのロメエヌ町の白い客間にいらっしゃるのを隙見をいたした時、それが分かったのでございます。 わたくしは隙見をいたしました。長い、長い間わたくしはあの硝子戸の傍に立ってあなたを見ていました。あなたの方からは見えませんのですが、わたくしは暗・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・それで貌の処だけは幾らか斟酌して隙を多く拵えるにした所で、兎に角頭も動かぬようにつめてしまう。つまり死体は土に葬むらるる前に先ずおが屑の嚢の中に葬むらるるのである。十四五年前の事であるが、余は猿楽町の下宿にいた頃に同宿の友達が急病で死んでし・・・ 正岡子規 「死後」
・・・気の合った友達と二人三人ずつ向うの隙き次第出掛けるだろう。僕の通って来たのはベーリング海峡から太平洋を渡って北海道へかかったんだ。どうしてどうして途中のひどいこと前に高いとこをぐんぐんかけたどこじゃない、南の方から来てぶっつかるやつはあるし・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・母親の頭が唐紙の隙から出た。「おやまた何か戴いたんですか……済みませんねえ」 そして、細君に向って愛想笑いしつつ、「だから御覧なね、外の方じゃないからいいようなもんの、まるでおねだり申したみたいじゃないか」と一太を叱った。・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・まだ猪之助といって、前髪のあったとき、たびたび話をしかけたり、何かに手を借してやったりしていた年上の男が、「どうも阿部にはつけ入る隙がない」と言って我を折った。そこらを考えてみると、忠利が自分の癖を改めたく思いながら改めることの出来なかった・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・衣服を剥がれたので痩肱に瘤を立てている柿の梢には冷笑い顔の月が掛かり、青白く冴えわたッた地面には小枝の影が破隙を作る。はるかに狼が凄味の遠吠えを打ち込むと谷間の山彦がすかさずそれを送り返し,望むかぎりは狭霧が朦朧と立ち込めてほんの特許に木下・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・絶えず隙間を狙う兇器の群れや、嫉視中傷の起す焔は何を謀むか知れたものでもない。もし戦争が敗けたとすれば、その日のうちに銃殺されることも必定である。もし勝ったとしても、用がすめば、そんな危険な人物を人は生かして置くものだろうか。いや、危い。と・・・ 横光利一 「微笑」
・・・多分昼間は隙がないのだろう。「冬になるとお前さんどこへ行くかね。コッペンハアゲンだろうね。」「いいえ。ここにいます。」「ここにいるのだって。この別荘造りの下宿にかね。」「ええ。」「お前さんの外にも、冬になってあの家にいる・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫