・・・そうして見ると、女房の持っていた拳銃の最後の一弾が気まぐれに相手の体に中ろうと思って、とうとうその強情を張り通したものと見える。 女房は是非この儘抑留して置いて貰いたいと請求した。役場では、その決闘と云うものが正当な決闘であったなら、女・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・始めから終わりまで道に迷い通しに迷って、無用な労力を浪費するばかりで、結局目的地の見当もつかずに日が暮れてしまうのがおちであろうと思われる。 しかし学校教育の必要といったような事を今さら新しくここで考え論じてみようというのではない。ただ・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・お絹はもう長いあいだ独身で通してきて、大阪へ行っている大きな子息に子供があるくらいだし、すっかり色の褪せた、おひろも、辰之助の話では、誰れかの持物になっていた。抱えは二人あったけれど、芸道には熱心らしかったけれど、渋皮のむけたような子はいな・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・蕚傾けて舟を通したるあとには、軽く曳く波足と共にしばらく揺れて花の姿は常の静さに帰る。押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。 舟は杳然として何処ともなく去る。美しき亡骸と、美しき衣と、美しき花と、人とも見えぬ一個・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・その頃の生徒や教師に対して、一人一人にみな復讐をしてやりたいほど、僕は皆から憎まれ、苛められ、仲間はずれにされ通して来た。小学校から中学校へかけ、学生時代の僕の過去は、今から考えてみて、僕の生涯の中での最も呪わしく陰鬱な時代であり、まさしく・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・金張りの素通しの眼鏡なんか、留置場でエンコの連中をおどかすだけの向だよ。今時、番頭さんだって、どうして、皆度のある眼鏡で、ロイド縁だよ。おいらあ、一月娑婆に居りあ、お前さんなんかが、十年暮してるよりか、もっと、世間に通じちまうんだからね。何・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・と、声も戦いながら入ッて来て、夜具の中へ潜り込み、抱巻の袖に手を通し火鉢を引き寄せて両手を翳したのは、富沢町の古着屋美濃屋善吉と呼ぶ吉里の客である。 年は四十ばかりで、軽からぬ痘痕があッて、口つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋に眼張のよ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・さて露した腕を、それまでぶらりと垂れていた片袖に通して、一方の導管に腰を掛けた。そして隠しからパンを一切と、腸詰を一塊と、古い薬瓶に入れた葡萄酒とを取出して、晩食をしはじめた。 この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・あるいは山を踰え谿に沿いあるいは吹き通しの涼しき酒亭に御馳走を食べたなどと書いてあるのを見ると、いくらか自分も暑さを忘れると同時にまたその羨ましさはいうまでもない。殊にこの紀行を見ると毎日西瓜何銭という記事があるのを見てこの記者の西瓜好きな・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・いいや、行くように云われて来たんだ、さあ通してお呉れ、いいや僕たちこそ大循環なんだ、よくマークを見てごらん、大循環と云われると大抵誰でも一寸顔いろを和らげてマークをよく見るねえ、はじめから、ああ大循環だ通してやれなんて云うものもそれぁあるよ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
出典:青空文庫