・・・と思ったり、又或時は「だが、此事はほんの俺の幻想に過ぎないんじゃないか、ただそんな風な気がすると云う丈けのことじゃないか、でなけりゃ……」とこんな風に、私にもそれがどっちだか分らずに、この妙な思い出は益々濃厚に精細に、私の一部に彫りつけられ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・太股ふッつりのお身替りなざア、ちとありがた過ぎる方だぜ。この上臂突きにされて、ぐりぐりでも極められりゃア、世話アねえ。復讐がこわいから、覚えてるがいい」「だッて、あんまり憎らしいんだもの」と、吉里は平田を見て、「平田さん、お前さんよく今・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・妻も一処に怒りて争うは宜しからず、一時発作の病と視做し一時これを慰めて後に大に戒しむるは止むを得ざる処置なれども、其立腹の理非をも問わず唯恐れて順えとは、婦人は唯是れ男子の奴隷たるに過ぎず、感服す可らざるのみか、末段に女は夫を以て天とす云々・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・……いわばまあ、上っ面の浮かれに過ぎないのだけれど、兎に角上っ面で熱心になっていた。一寸、一例を挙げれば、先生の講義を聴く時に私は両手を突かないじゃ聴かなんだものだ。これは先生の人格よりか「道」その物に対して敬意を払ったので。こういう宗教的・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・しかしこの平民的な苗字が自分の中心を聳動して、過ぎ去った初恋の甘い記念を喚び起すことは争われない。 その時のピエエルは高等学校を卒業したばかりで、高慢なくせにはにかんだ、世慣れない青年であった。丈は不吊合に伸びていて、イギリス人の a ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・しかし己は高が身の周囲の物事を傍観して理解したというに過ぎぬ。己と身の周囲の物とが一しょに織り交ぜられた事は無い。周囲の物に心を委ねて我を忘れた事は無い。果ては人と人とが物を受け取ったり、物を遣ったりしているのに、己はそれを余所に見て、唖や・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・にちらちらして居る所、即ち作者は森の影を踏んでちらちらする葉隠れの月を右に見ながら、いくら往ても往ても月は葉隠れになったままであって自分の顔をかっと照す事はない、という、こういう趣を考えたが、時間が長過ぎて句にならぬ、そこで急に我家へ帰った・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずいぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはずれに居る人・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・ふき子の内身からは一種無碍な光輝が溢れ出て、何をしている瞬間でもその刹那刹那が若い生命の充実で無意識に過ぎて行く。丁度無心に咲いている花の、花自身は知らぬ深い美に似たものが、ふき子の身辺にあった。陽子は、自分の生活の苦しさなどについて一言も・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 微笑の影が木村の顔を掠めて過ぎた。そしてあの用箪笥の上から、当分脚本は降りないのだと、心の中で思った。昔の木村なら、「あれはもう見ない事にしました」なんぞと云って、電話で喧嘩を買ったのである。今は大分おとなしくなっているが、彼れの微笑・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫