・・・それよりも僕には、伊東温泉の半年のほうが、ずっと永くて、そうして自分というこの重苦しい人間の存在が、まごうかたなく生きて動いている感じで、悲しみも喜びも、自分の皮膚にしみ込んで来るような思いがして、僕の三年半の兵隊生活のうちで、君たちに語り・・・ 太宰治 「雀」
・・・ 夕方まで、家の中には、重苦しい沈黙が続いた。電話も、あれっきりかかって来ない。節子には、それがかえって不安であった。堪えかねて、母に言った。「お母さん!」小さい声だったけれど、その呼び掛けは母の胸を突き刺した。 母は、うろうろ・・・ 太宰治 「花火」
・・・敵の捨てて遁げた汚い洋館の板敷き、八畳くらいの室に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それにすさまじい蠅の群集、よく二十日も辛抱していた。麦飯の粥に少しばかりの食塩、よくあれでも飢餓を凌いだ。かれは病院の背後の便所を思・・・ 田山花袋 「一兵卒」
真夏の正午前の太陽に照りつけられた関東平野の上には、異常の熱量と湿気とを吸込んだ重苦しい空気が甕の底のおりのように層積している。その層の一番どん底を潜って喘ぎ喘ぎ北進する汽車が横川駅を通過して碓氷峠の第一トンネルにかかるこ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・いつもならば夕凪の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に湿っぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻いては、暗い床の間の掛物をあおる。草も木も軒の風鈴も目に見えぬ魂が入って動くように思われる。 浜辺に焚火をしているのが見える。・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ ベルリンの冬はそれほど寒いとは思わなかったが暗くて物うくて、そうして不思議な重苦しい眠けが濃い霧のように全市を封じ込めているように思われた。それが無意識な軽微の慢性的郷愁と混合して一種特別な眠けとなって額をおさえつけるのであった。この・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・これはたしかに単調で重苦しい学校の空気をかき乱して、どこかのすきまから新鮮な風が不時に吹き込んで来たようなものであった。生徒の喜んだことはいうまでもない。おもしろいものが見られ聞かれてその上に午後の課業が休みになるのだから、文学士と蓄音機と・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
九月三日は朝方荒い雨が降った、やがて止んだが重苦しい蒸暑さがじりじりと襲って来た。仕事をしていると『中央美術』から電話が掛かって今日が二科会展覧会の招待日であることを想い出させられた。数年前まではこの日を指折り数えて楽しみ・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・という事が非常に明確な実感となって自分の頭に流れ込む。重苦しい夜の圧迫が今ようやく除かれるのだという気がすると同時にこわばって寝苦しかった肉体の端から端までが急に柔らかく快くなる。しばらく途絶えていた鳥の声がまた聞こえる。するとどういうもの・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・その重苦しい何かしら凶事を予感させるような単調な音も、夕凪の夜の詩には割愛し難い象徴的景物である。 東京という土地には正常の意味での夕凪というものが存在しない。その代りに現れる夏の夕べの涼風は実に帝都随一の名物であると思われるのに、それ・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
出典:青空文庫