・・・石に逢えばかかん、かからんと云う。陰気な音ではない。しかし寒い響である。風は北から吹く。 細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく鎖されている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯が見える。赤くぜんざいとかいてある。・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ で、家族のものは、泣きながら食卓の前に坐らされている、腹の空いた子供のような気持を、抱かない訳には行かなかった。 陰気であった。が、何だか険悪であった。線香をいぶすのにも、お経を読むのにも早過ぎた。第一、室が広すぎた。余り片附きす・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・是れより以上醜行の稍や念入にして陰気なるは、召使又は側室など称し、自家の内に妾を飼うて厚かましくも妻と雑居せしむるか、又は別宅を設けて之を養い一夫数妾得々自から居る者あり。正しく五母鶏、二母じぼていの実を演ずるものにして、之を評して獣行と言・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・そうすると狭い壁と壁との間に迷や涙で包まれた陰気な世界が出来て、人の心はこの中に擒にせられてしまうのだ。あるいは幾人か集って遠い処に行っている一人を思ったり、あるいは誰か一人に憂き事があるというと、皆が寄って慰めるのだ。しかし己は慰めという・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・とある山陰の杉の木立が立っておるような陰気な所で其木立をひかえて一つの焼き場がある。焼き場というても一寸した石が立っておる位で別に何の仕掛けもない。唯薪が山のように積んである上へ棺を据えると穏坊は四方から其薪へ火をつける。勿論夜の事であるか・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ 今日は陰気な霧がジメジメ降っています。木も草もじっと黙り込みました。ぶなの木さえ葉をちらっとも動かしません。 ただあのつりがねそうの朝の鐘だけは高く高く空にひびきました。 「カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン」おしまいの・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・彼女は、今日特別陰気で、唇をも動かさず口の中で、「いらっしゃいまし」と挨拶した。「岡本さんも一緒に召し上れよ」「はあ、私あちらでいただきますから」 陽子の部屋に比べると、海岸に近いだけふき子の家は明るく、眩ゆい位日光が溢・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ そして頗る愉快げな、晴々とした顔をして、陰気な灰色の空を眺めている。木村を知らないものが見たら、何が面白くてあんな顔をしているかと怪むことだろう。 顔を洗いに出ている間に、女中が手早く蚊を畳んで床を上げている。そこを通り抜けて、唐・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・おもえばあのように陰気で冷淡そうな方が僕のようなものを可愛がって下さるのは、不思議なようですが、ほんとうにそうなんでした。よく僕は奥さまの仰しゃる通りに、頭を胸へよせ掛けて、いつまでか抱れていると、ジット顔を見つめていながら色々仰ったその言・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・相手にそれだけ力と愛とが横溢していない時には、勢い愚痴は相手を弱め陰気にします。我々から愛を求めている者に対して我々の愚痴を聞かせるのはあまりに心なき業だと思います。 私たちは未来を知らない。未来に希望をかける事が不都合なら未来に失望す・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫