・・・それから潜水夫がお心付けを戴きたいと申しました。」 おれはすっかり気色を悪くして、もう今晩は駄目だと思った。もうなんにもすまいと思って、ただ町をぶらついていた。手には例の癪に障る包みを提げている。二三度そっと落してみた。すぐに誰かが拾っ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・ もう一つ特に私が宇都野さんに望む所は、時々はもう少し不用意な、読みっ放しの云わばもっとそつのある歌をよんで見せて頂きたいと思う事である。これは無理かも知れないが、ただ私だけの希望である。 最後に私は宇都野さんの歌集が近き将来に世に・・・ 寺田寅彦 「宇都野さんの歌」
・・・梧の梢が枝ばかりになり、芙蓉や萩や頭や、秋草の茂りはすっかり枯れ萎れてしまったので、庭中はパッと明く日が一ぱいに当って居て、嘗て、小蛇蟲けらを焼殺した埋井戸のあたりまで、又恐しい崖下の真黒な杉の木立の頂きまでが、枯れた梢の間から見通される。・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ カーライルまた云う倫敦の方を見れば眼に入るものはウェストミンスター・アベーとセント・ポールズの高塔の頂きのみ。その他幻のごとき殿宇は煤を含む雲の影の去るに任せて隠見す。「倫敦の方」とはすでに時代後れの話である。今日チェルシーに来て・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・前論士がもし農場を経営なすった際には参観さして戴きたい。又人間には盗むというような考があります。これは極めて自然のことであります。そんならそのままでいいではないか。と斯うなります。又異教派の方にも大分諸方から鉄道などでお出でになった方もある・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ただ、どうぞ、あなたがたの若く感じやすい心が、それに対して何と感じているか、ということを、しんから考えて頂きとうございます。 一部の人たちは、自分たちが、もう一遍うまいことのやり直しとして希望する世界の悲劇は、そう簡単にひき起されるもの・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」と云ったのである。 七人の娘は可哀らしい、黒い瞳で顔を見合った。 言語が通ぜないのである。 第八の娘の両臂は自然の重みで垂れている。 言語は通ぜないでも好い。 第八の娘の態度は第・・・ 森鴎外 「杯」
・・・やっぱり二頭曳を雇って来て戴きましょう。そういたすとわたくし今になってはどんな静かな、軟い二頭曳でも役に立たなくなっていると云うことを、あなたにお見せ申しますから、あなたもそのおつもりでお附合いなさいますようにね。ほんにほんに男の方と云うも・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・既に決定せられたがように、譬えこの頂きに療院が許されたとしても、それは同時に尽くの麓の心臓が恐怖を忘れた故ではなかった。 間もなく、これらの腐敗した肺臓を恐れる心臓は、頂の花園を苦しめ出した。彼らは花園に接近した地点を撰ぶと、その腐敗し・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・この意味で忠義を鼓吹して頂きたい。 小生の手紙の大意は右のごときものであった。ところでこの手紙を書いているうちに、小生が少年時以来養成されて来たと思っていた皇室への情熱が、いつの間にか内容を異にしている――というよりも内容を深めているの・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫