・・・小僧はだぶだぶの白足袋に藁草履をはいて、膝きりのぼろぼろな筒袖を着て、浅黄の風呂敷包を肩にかけていた。「こらこら手前まだいやがるんか。ここは手前なぞには用のないところなんだぜ。出て行け!」 掃除に来た駅夫に、襟首をつかまえられて小突・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・「帰って、風呂へ行って」と女は欠伸まじりに言い、束髪の上へ載せる丸く編んだ毛を掌に載せ、「帰らしてもらいまっさ」と言って出て行った。喬はそのまままた寝入った。 四 喬は丸太町の橋の袂から加茂磧へ下りて行った。磧に・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 夕飯と風呂を済ませて峻は城へ登った。 薄暮の空に、時どき、数里離れた市で花火をあげるのが見えた。気がつくと綿で包んだような音がかすかにしている。それが遠いので間の抜けた時に鳴った。いいものを見る、と彼は思っていた。 ところへ十・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・お湯屋の風呂に入って、風呂銭を払わない、煙草屋で、煙草を借りて、そのまゝ借りッぱなしである。饂飩屋も、お湯屋も、煙草屋も、商売の一寸した手落ちにケチをつけられて罰金沙汰にせられるのが怖い。そこで、スパイに借られ、食われたものは、代金請求もよ・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・古びて歪んではいるが、座敷なんぞはさすがに悪くないから、そこへ陣取って、毎日風呂を立てさせて遊んでいたら妙だろう。景色もこれという事はないが、幽邃でなかなか佳いところだ。という委細の談を聞いて、何となく気が進んだので、考えて見る段になれば随・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・たり甘酒進上の第一義俊雄はぎりぎり決着ありたけの執心をかきむしられ何の小春が、必ずと畳みかけてぬしからそもじへ口移しの酒が媒妁それなりけりの寝乱れ髪を口さがないが習いの土地なれば小春はお染の母を学んで風呂のあがり場から早くも聞き伝えた緊急動・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂を浴びに、鼠坂から森元町の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟二人とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。私の顔色はまだ悪かった。私は小田原の海岸まで保養を思い立ったこともある。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・それを結んで小暗い風呂場から出てくると、藤さんが赤い裏の羽織を披げて後へ廻る。「そんなものを私に着せるのですか」「でもほかにはないんですもの」と肩へかける。「それでも洋服とは楽でがんしょうがの」と、初やが焜炉を煽ぎながらいう。羽・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・それから、気軽に立って、おい佐吉さん、銭湯へ行こうよと言い出すのだから、相当だろう。風呂へ入って、悠々と日本剃刀で髯を剃るんだ。傷一つつけたことが無い。俺の髯まで、時々剃られるんだ。それで帰って来たら、又一仕事だ。落ちついたもんだよ。」・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・に連れて行ったのだが、いよいよ海水浴をさせようとするとひどく怖がって泣き叫んでどうしても手に合わないので、仕方なく宿屋で海水を沸かした風呂を立ててもらってそれで毎日何度も温浴をさせた。とにかくその一と夏の湯治で目立って身体が丈夫になったので・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
出典:青空文庫