・・・ 風鈴の音の涼しさも、一つには風鈴が風に従って鳴る自由さから来る。あれが器械仕掛けでメトロノームのようにきちょうめんに鳴るのではちっとも涼しくはないであろう。また、がむしゃらに打ちふるのでは号外屋の鈴か、ヒトラーの独裁政治のようなものに・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・彼が殊更に、この薄暗い妾宅をなつかしく思うのは、風鈴の音凉しき夏の夕よりも、虫の音冴ゆる夜長よりも、かえって底冷のする曇った冬の日の、どうやら雪にでもなりそうな暮方近く、この一間の置炬燵に猫を膝にしながら、所在なげに生欠伸をかみしめる時であ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・遅桜もまだ散り尽さぬ頃から聞えはじめる苗売の声の如き、人はまだ袷をもぬがぬ中早くも秋を知らせる虫売の如き、其他風鈴売、葱売、稗蒔売、朝顔売の如き、いずれか俳諧中の景物にあらざるはない。正月に初夢の宝船を売る声は既に聞かれなくなったが、中元に・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・とぎれとぎれの風鈴の音――自分はまだ何処へも行こうという心持にはならずにいる。二 モオパッサンの短篇小説 Les Surs Rondoli(ロンドリ姉妹の初めに旅行の不愉快な事が書いてある。「……転地ほど無益なものは・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・竹格子の窓には朝顔の鉢が置いてあったり、風鈴の吊されたところもあったほどで、向三軒両鄰り、長屋の人たちはいずれも東京の場末に生れ育って、昔ながらの迷信と宿習との世界に安じていたものばかり。洋服をきて髯など生したものはお廻りさんでなければ、救・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・西日のさしこむ軒に竹すだれがかかり、風鈴の赤い短冊がゆれていて、なめたようにきれいな狭い台所口があいていると、裏の田圃が見えた。おゆきのうちには、猫がいた。 子供たちは、菊見せんべいへ行くとき、一緒に来る大人が母でさえなければ、おゆきの・・・ 宮本百合子 「菊人形」
・・・あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵が吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には丈の高い石の頂を掘りくぼめた手水鉢がある。その上に伏せてある捲物の柄杓に、やんまが一疋止まって、羽を山形に垂れて動かずに・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫