・・・日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。 戸は直ぐに開きました。が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、も・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・昼間でも草の中にはもう虫の音がしていましたが、それでも砂は熱くって、裸足だと時々草の上に駈け上らなければいられないほどでした。Mはタオルを頭からかぶってどんどん飛んで行きました。私は麦稈帽子を被った妹の手を引いてあとから駈けました。少しでも・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・誰やらが衝立のような物の所へ駆け附けた。「電流を。電流を。」押えたような検事の声である。 ぴちぴちいうような微かな音がする。体が突然がたりと動く。革紐が一本切れる。何だかしゅうというような音がする。フレンチは気の遠くなるのを覚えた。・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・世界貿易の中心点が太平洋に移ってきて、かつて戈を交えた日露両国の商業的関係が、日本海を斜めに小樽対ウラジオの一線上に集注し来らむとする時、予がはからずもこの小樽の人となって日本一の悪道路を駆け廻る身となったのは、予にとって何という理由なしに・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 引込まれては大変だと、早足に歩行き出すと、何だかうしろから追い駈けるようだから、一心に遁げ出してさ、坂の上で振返ると、凄いような月で。 ああ、春の末でした。 あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。 自分の影を・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・二百円、三百円、五百円の代物が二割、三割になるんですから、実入りは悪くもないんですが、あッちこッちへ駆けまわって買い込んだ物を注文主へつれて行くと、あれは善くないから取りかえてくれろの、これは悪くもないがもッと安くしてくれろのと、間に立つも・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ブリッジを渡る暇もないのでレールを踏越えて、漸とこさと乗込んでから顔を出すと、跡から追駈けて来た二葉亭は柵の外に立って、例の錆のある太い声で、「芭蕉さまのお連れで危ない処だった」といった。その途端に列車は動き出し、窓からサヨナラを交換したが・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 女房は人けのない草原を、夢中になって駈けている。ただ自分の殺した女学生のいる場所からなるたけ遠く逃げようとしているのである。跡には草原の中に赤い泉が涌き出したように、血を流して、女学生の体が横わっている。 女房は走れるだけ走って、・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・こう叫んでお母さまのそばへ駆けてゆきました。「わたし、あの、青い花の香りをかいで、お姉さんを思い出したの、背のすらりとした、頭髪のすこしちぢれた方でなくって?」といいました。「ああそうだったよ。」と、お母さまは、よくお姉さんを思い出・・・ 小川未明 「青い花の香り」
出典:青空文庫