・・・サーベルの鞘が鳴る。武石は窓枠に手をかけて、よじ上り、中をのぞきこんだ。「分るか。」「いや、サモールがじゅんじゅんたぎっとるばかりだ。――ここはまさか、娘を売物にしとる家じゃないんだろうな。」 コーリヤが扉のかげから現れて来た。・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄んだ声で、断えず鳴る笛吹川の川瀬の音をもしばしは人の耳から逐い払ってしまったほどであった。 これを聞くとかの急ぎ歩で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅くしてしまって、声のした方を・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・もじと箸も取らずお銚子の代り目と出て行く後影を見澄まし洗濯はこの間と怪しげなる薄鼠色の栗のきんとんを一ツ頬張ったるが関の山、梯子段を登り来る足音の早いに驚いてあわてて嚥み下し物平を得ざれば胃の腑の必ず鳴るをこらえるもおかしく同伴の男ははや十・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・北風が来れば、槲の葉が直ぐ鳴るような調子で、「畜生ッ。打つぞ」 髪を振って、娘は遊び友達の方へ走って行った。 島崎藤村 「岩石の間」
・・・自分はわが考えの中で鳴るのかと思う。前から藁を背負った男が来る。後で、「ごめんなんせ」という。振り向くと、馬の鼻が肩のところに覗いている。小走りに百姓家の軒下へ避ける。そこには土間で機を織っている。小声で歌を謡っている。「おおい」と・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・と一ばん若いお客が、呶鳴るように言いまして、「ねえさん、おれは惚れた。一目惚れだ。が、しかし、お前は、子持ちだな?」「いいえ」と奥から、おかみさんは、坊やを抱いて出て来て、「これは、こんど私どもが親戚からもらって来た子ですの。これでもう・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
渠は歩き出した。 銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟するので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭になってしまっ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・突然この音が絶えると同時に銀幕のまん中にはただ一本の旗が現われ、それが強い砂漠のあらしになびいてパリパリと鳴る音が響いて来る。ピアノの音からこの旗のはためきに移る瞬間に、われわれはちょうどあるシンフォニーでパッショネートな一楽章から急転直下・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い夜を吹下した。見えない屋敷の方で、遠く消魂しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引かれて、やっと家へ帰った事がある。 安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五・・・ 永井荷風 「狐」
・・・蜀黍が少しがさがさと鳴るように聞えた。太十は蚊帳を透して見た。其時月はすべてが熟睡した頃とこっそり姿を現わしかけて居た。畑がほのかに明るくなりかけた。太十は動くものを認めた。彼の怒は彼の全心を掩うた。彼は後の方からそっと蚊帳を出た。尚前方を・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫