・・・ その時どうしたのだか知らないが、忽ち向うの白けた空の背景の上に鼠色の山の峯が七つ見えているあたりに、かっと日に照らされた、手の平ほどの処が見えて来た。その処は牧場である。緩傾斜をなして、一方から並木で囲まれている。山のよほど高い処にあ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・チャリネはこの牧場に鼠色したテントの小屋をかけた。牛と豚とは、飼主の納屋に移転したのである。 夜、村のひとたちは頬被りして二人三人ずつかたまってテントのなかにはいっていった。六、七十人のお客であった。少年は大人たちを殴りつけては押しのけ・・・ 太宰治 「逆行」
・・・空は低く鼠色。雨は、もうやんでいる。島は、甲板から百メートルと離れていない。船は、島の岸に沿うて、平気で進む。私にも、少しわかって来た。つまり船は、この島の陰のほうに廻って、それから碇泊するのだろうと思った。そう思ったら、少し安心した。私は・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。 ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。 私がわるいことをし・・・ 太宰治 「葉」
・・・ 紙の色は鈍い鼠色で、ちょうど子供等の手工に使う粘土のような色をしている。片側は滑かであるが、裏側はずいぶんざらざらして荒筵のような縞目が目立って見える。しかし日光に透かして見るとこれとはまた独立な、もっと細かく規則正しい簾のような縞目・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・これも粗末ではあるが、鼠色がかった白釉の肌合も、鈍重な下膨れの輪郭も、何となく落ちついていい気持がするので、試しに代価を聞いてみると七拾銭だという。それを買う事にして、そして前の欠けた壷と二つを持って帰ろうとするが、主人はそれでも承知してく・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・いつもバンドのとれたよごれた鼠色のフェルト帽を目深に冠っていて、誰も彼の頭の頂上に髪があるかないかを確かめたものはないという話であった。その頃の羅宇屋は今のようにピーピー汽笛を鳴らして引いて来るのではなくて、天秤棒で振り分けに商売道具をかつ・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖茶色のコートを襲ねたりすると、実直な商人としか・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・青山原宿あたりの見掛けばかり門構えの立派な貸家の二階で、勧工場式の椅子テーブルの小道具よろしく、女子大学出身の細君が鼠色になったパクパクな足袋をはいて、夫の不品行を責め罵るなぞはちょっと輸入的ノラらしくて面白いかも知れぬが、しかし見た処の外・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・そして其処には使捨てた草楊枝の折れたのに、青いのや鼠色の啖唾が流れきらずに引掛っている。腐りかけた板ばめの上には蛞蝓の匐た跡がついている。何処からともなく便所の臭気が漲る。 衛生を重ずるため、出来る限りかかる不潔を避けようためには県知事・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫