・・・程なく、彼女は、室の内側に開く扉のかげにはりついたような形をして首だけ彼に向けながら「依岡様からお電話でございます。あの――」 何故か、れんはこの時総入歯の歯を出してにっと笑った。「旦那様の御加減はいかがでございますかと仰云って・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・私は、衝動的に、晴々と拘りない地平線を飽くほど眺めたい渇望を感じた。大らかな天蓋のように私共の頭上に懸って居べき青空は、まるで本来の光彩を失って、木や瓦の間に、断片的な四角や長方形に画られて居る。息吹は吹きとおさない。此処からは、何処にも私・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ところであると見た。飽くことない探求者、個人主義者のアンドレ・ジイドは、人間を求めて集団生活にたどりついた。「正しく理解された個人主義は当然社会に役立つべきものだ。個人主義をコムミニスムに対立させるのは間違いである」と思うジイド独特の歩きつ・・・ 宮本百合子 「ジイドとそのソヴェト旅行記」
・・・、正しさを奨励され、綺麗な物語りの中に育って、躊躇とか不安とかいうものをまるで知らなかった彼女は、自分の前へ限りもなく拡げられる、種々雑多な色と、形と音との世界に対して、まるで勇ましい探検者のように、飽くことのない興味と熱中とをもって、突き・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・即ち社会の「下から、群集に混って困苦と苦闘を経ながら飽くことのない天才の資質とをもって其を眺めた」バルザックが、複雑多岐な形態で各人に作用を及ぼしている社会的モメントをつきつめれば、それは二つのもの、色と慾とであることを観察し、更にこの二つ・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・ ゴーリキイにはこれらの人々が「善人なのか、悪人なのか、平和好きなのか、悪戯好きなのか、又どうしてこんなに酷い、飽くことない意地悪なのか、どうしてこう意久地なくおとなしいのか」分らない。そして、この如何にもおとなしく、見るも気の毒な程素・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・窓へ手を掛けて押すとなんの抗抵もなく開く。その時がさがさと云う音がしたそうだ。小川君がそっと中を覗いて見ると、粟稈が一ぱいに散らばっている。それが窓に障って、がさがさ云ったのだね。それは好いが、そこらに甑のような物やら、籠のような物やら置い・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・さ程深くもなかった交が絶えてから、もう久しくなっているが、僕はあの人の飽くまで穏健な、目前に提供せられる受用を、程好く享受していると云う風の生活を、今でも羨ましく思っている。蔀君は下町の若旦那の中で、最も聡明な一人であったと云って好かろう。・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・ぱッと音立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔だった。赤児が初めて笑い出す靨のような、消えやすい笑いだ。この少年が博士になったとは、どう思ってみても梶には頷けないことだったが、笑顔に顕れてかき消える瞬間の美しさは、その他の疑いなどどうでも良くな・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その度にびっくりして目を開く。目を開いてはこの気味の悪い部屋中を見廻す。どこからか差す明りが、丁度波の上を鴎が走るように、床の上に影を落す。 突然さっき自分の這入って来た戸がぎいと鳴ったので、フィンクは溜息を衝いた。外の廊下の鈍い、薄赤・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫