・・・眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頸の辺りに至まで、先刻見た女そのままである。思わず馳け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前男の子にダッドレーの紋・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・そいつが支那人の身体に当り、頭や腕をヘシ折るのだった。「それ、あなた。すこし、乱暴あるネ。」 と叫びながら、可憫そうな支那兵が逃げ腰になったところで、味方の日本兵が洪水のように侵入して来た。「支那ペケ、それ、逃げろ、逃げろ、よろ・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・方角や歩数等から考えると、私が、汚れた孔雀のような恰好で散歩していた、先刻の海岸通りの裏辺りに当るように思えた。 私たちの入った門は半分丈けは錆びついてしまって、半分だけが、丁度一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・が、まだ完全には眠ってしまわないで、夢の初めか、現の終わりかの幻を見ていると、フト彼の顔の辺りに何かを感じた。彼の鋭くとがった神経は針でも通されたように、彼を冷たい沼の水のような現実に立ち返らせた。が、彼は盗棒に忍び込まれた娘のように、本能・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ お梅はにわかにあわて出し、唐紙へ衝き当り障子を倒し、素足で廊下を駈け出した。 五 平田は臥床の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰き眼・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・事に当りて男子なれば大に怒る可き場合をも、婦人は態度を慎しみ温言以て一場の笑に附し去ること多し。世間普通の例に男同士の争論喧嘩は珍らしからねど、其男子が婦人に対して争うことは稀なり。是れも男子の自から慎しむには非ずして、実は婦人の柔和温順、・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・右之通明治四十二年三月二十二日 露都病院にて長谷川辰之助長谷川静子殿長谷川柳子殿 遺族善後策これは遺言ではなけれど余死したる跡にて家族の者差当り自分の処分に迷うべし仍て余の意見を左・・・ 二葉亭四迷 「遺言状・遺族善後策」
・・・この際に当りて蕪村は句法の上に種々工夫を試み、あるいは漢詩的に、あるいは古文的に、古人のいまだかつて作らざりしものを数多造り出せり。春雨やいざよふ月の海半春風や堤長うして家遠し雉打て帰る家路の日は高し玉川に高野の花や流れ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ ブドリはそこで思い切って、なるべく足音をたてないように二階にあがって行きますと、階段のつき当たりの扉があいていて、じつに大きな教室が、ブドリのまっ正面にあらわれました。中にはさまざまの服装をした学生がぎっしりです。向こうは大きな黒い壁・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・陽子はさし当り入用な机、籐椅子、電球など買った。四辺が暗くなりかけに、借部屋に帰った。上り端の四畳に、夜具包が駅から着いたままころがしてある。今日は主の爺さんがいた。「勝手に始末しても悪かろうと思って――私が持って行って上げましょう」・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
出典:青空文庫