・・・また、もひとつ、つぎはぎのゆめを見た、ぬすびとの、わきざしを持ち、にかいへあがる、ころものそで、はしごにかかり、つぎに、ざいたふみ落す、ここわなにかと問へば、たばこをだす、あな、と言ふ、したには、くわじなかば、琴のいとをしめて、かへるといへ・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・ないので、雨の日には泥濘の深い田畝道に古い長靴を引きずっていくし、風の吹く朝には帽子を阿弥陀にかぶって塵埃を避けるようにして通るし、沿道の家々の人は、遠くからその姿を見知って、もうあの人が通ったから、あなたお役所が遅くなりますなどと春眠いぎ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・私と並んで、マリアナ・ミハイロウナが歩いている。 二人は黙って歩いている。しかし、二人の胸の中に行き交う想いは、ヴァイオリンの音になって、高く低く聞こえている。その音は、あらゆる人の世の言葉にも増して、遣る瀬ない悲しみを現わしたものであ・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・は河または河辺の野であり、アイヌやサモア、マオリ語でも「アナ」は穴でもある。戸波 「ペッパロ」は川口。またモン語で「ウェア」は平原。大西 「オニウシ」大きな森。奈路 この地名は土佐各所の山中にある。アイヌで「ノル」は熊の足跡であ・・・ 寺田寅彦 「土佐の地名」
・・・またある時は「あなた、かくしているでしょう、きっとそうだ、あなたそうでしょう」とうるさく聞きながら、余の顔色を読もうとする、その祈るような気づかわしげな目づかいを見るのが苦しいから「ばかな、そんな事はないと言ったらない」と邪慳な返事で打ち消・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・そして、この名前をつけたアナーキストの小野は、この春に上京してしまっていた。「どうだ、あがらんか」 深水はだいぶ調子づいていた。「おい、そっちに餉台をだしな」 嫁さんはなんでもうれしそうに、部屋のなかへ支度しはじめた。「・・・ 徳永直 「白い道」
・・・河のあなたに烟る柳の、果ては空とも野とも覚束なき間より洩れ出づる悲しき調と思えばなるべし。 シャロットの路行く人もまた悉くシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯の寛き衣を纏いて、長き・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「それを心配するから迷信婆々さ、あなたが御移りにならんと御嬢様の御病気がはやく御全快になりませんから是非この月中に方角のいい所へ御転宅遊ばせと云う訳さ。飛んだ預言者に捕まって、大迷惑だ」「移るのもいいかも知れんよ」「馬鹿あ言って・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・だが、そんな馬鹿なこたあない。死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせいにして見たが、「死骸が溜息をついてる」とその通りの言葉で私は感じたものだ。と同時に腹ん中の一切の道具が咽・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・煙あないぶせ銚子かけてたく藁のもゆとはなしに煙のみたつ「あないぶせ」とかように初に置くこと感情の順序に戻りて悪し。『万葉』にてはかくいわず。全くこの語を廃するか、しからざれば「煙立ついぶせ」などように終りに置くべ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫