・・・「いくらもありゃしませんけれどな、お金なぞたんと要らん思う。私はこれで幸福や」そう言って微笑していた。 もっと快活な女であったように、私は想像していた。もちろん憂鬱ではなかったけれど、若い女のもっている自由な感情は、いくらか虐げられ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・「狸が人を婆化すと云いやすけれど、何で狸が婆化しやしょう。ありゃみんな催眠術でげす……」「なるほど妙な本だね」と源さんは煙に捲かれている。「拙が一返古榎になった事がありやす、ところへ源兵衛村の作蔵と云う若い衆が首を縊りに来やした・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・「首なし死体を投り込んだんだよ。ありゃ腐った臓腑だけっか入ってねえんだ。お前だって、あの行李ん中へ入ってるんだよ。俺だって、自分の行李がいらなくなりゃ、雇止めを食わさあな、ヘッ。さようなら、御機嫌よう。首なしさん。だよ。ハッハッハハ」・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・「どうせ、もうしようがありゃアしないよ。頼まれるような客は来てくれないしさ、どうなるものかね。その時ゃその時で、どうかこうか追ッつけとくのさ」「追ッつけられりゃ、誰だッて追ッつけたいのさ。私なんざそれが出来ないんだから、実に苦労でし・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・華族といや大そうなようだが引導一つ渡されりャ華族様も平民様もありゃアしない。妻子珍宝及王位、臨命終時不随者というので御釈迦様はすました者だけれど、なかなかそうは覚悟しても居ないから凡夫の御台様や御姫様はさぞ泣きどおしで居られるであろう。可哀・・・ 正岡子規 「墓」
・・・「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」「二百十日で来たのだな。」「靴はいでだたぞ。」「服も着でだたぞ。」「髪赤くておかしやづだったな。」「ありゃありゃ、又三郎おれの机の上さ石かけ乗せでったぞ。」二年生の子が言いまし・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・「私ほど考えれば考えるほど不運な者あありゃしない。親も同胞もない身で、おまけに思いもよらないこんな貧乏するなんて……本当にお前さえいなけりゃまた身の振り方もあろうが。――一ちゃん。しっかりしてくれなけりゃお母さん、何の望みで生きてるのか・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・為事は一つありゃあ好いのだ。思付なんぞはいくらでもあるから、片っ端から人にくれて遣る。それを一つ掴まえて為事にする奴が成功するのだ。中には己の思付で己より沢山金をこしらえるものもある。金が何だ。金くらい詰まらないものが、世の中にありゃあしね・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・銭がありゃあ皆手めえが無駄遣いをしてしまうのだ。ずべら女めが。」 小さい女房はツァウォツキイの顔をじっと見ていたが、目のうちに涙が涌いて来た。 ツァウォツキイは拳を振り上げた。「泣きゃあがるとぶち殺すぞ。」 こう云っておいて、ツ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「何処って、俺に行くところがありゃ結構やさ。」「帰って来たんか?」「帰ったんや。医者がお前、保たん云いさらしてのう。心臓や。」「心臓か、えろう上品や病やのう。」「うむ、もう念仏や。お母はおらんか。」「お母に何ぞ用があ・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫