・・・「恩地殿のような武芸者も、病には勝てぬと見えますな。」と云った。「いえ、病人は恩地様ではありません。あそこに御出でになる御客人です。」――人の好さそうな内弟子は、無頓着にこう返事をした。 それ以来喜三郎は薬を貰いに行く度に、さりげなく兵・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・監督はいつものとおり無表情に見える声で、「いえなに……」 と曖昧に答えた。父は蒲団の左角にひきつけてある懐中道具の中から、重そうな金時計を取りあげて、眼を細めながら遠くに離して時間を読もうとした。 突然事務所の方で弾条のゆるんだ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・大きな目をって、褐色を帯びた、ブロンドの髪を振り捌いて、鹿の足のような足で立っているのがなんともいえないほど美しい。 事によったらこの小娘も、いつか魚に同情を寄せてこんな事を言うようになるだろう。「宅の娘なんぞは、どんな事があっても・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・そうしてさらに詳しくいえば、純粋自然主義はじつに反省の形において他の一方から分化したものであったのである。 かくてこの結合の結果は我々の今日まで見てきたごとくである。初めは両者とも仲よく暮していた。それが、純粋自然主義にあってはたんに見・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・妙齢の娘でも見えようものなら、白昼といえども、それは崩れた土塀から影を顕わしたと、人を驚かすであろう。 その癖、妙な事は、いま頃の日の暮方は、その名所の山へ、絡繹として、花見、遊山に出掛けるのが、この前通りの、優しい大川の小橋を渡って、・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・といえば、「ハイ……雨になるようなことはなかろうと申しておりますが」という。予は一種の力に引きおこされるような思いに二階をおりる。 宿をでる。五、六歩で左へおりる。でこぼこした石をつたって二丈ばかりつき立っている、暗黒な大石・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・とられるものがあるのに」と云って「自分のつみは云わないで歎くものが多いのに貴方はよくお歎になりませんネ。貴方は子のかわりのこんなつらい事にあうのではないか」といえばこの親仁は彼の出家を殺した因果話をして七年目になって月日もあしたと同じである・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・牛島の弘福寺といえば鉄牛禅師の開基であって、白金の瑞聖寺と聯んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰とな・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それである歴史家がいうたに「イギリス人の書いたもので歴史的の叙事、ものを説き明した文体からいえば、カーライルの『フランス革命史』がたぶん一番といってもよいであろう、もし一番でなければ一番のなかに入るべきものである」ということであります。それ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ すると毎日、その時分になると、遠い町の方にあたって、なんともいえないよい音色が聞こえてきました。さよ子は、その音色に耳を澄ましました。「なんの音色だろう。どこから聞こえてくるのだろう。」と、独り言をして、いつまでも聞いています・・・ 小川未明 「青い時計台」
出典:青空文庫