・・・義姉自身の意志が多くそれに働いていたということは、多少不快に思われないことはないにしても、義姉自身の立場からいえば、それは当然すぎるほど当然のことであった。ただ私の父の血が絶えるということが私自身にはどうでもいいことであるにしても、私たちの・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・人間が懺悔して赤裸々として立つ時、社会が旧習をかなぐり落して天地間に素裸で立つ時、その雄大光明な心地は実に何ともいえぬのである。明治初年の日本は実にこの初々しい解脱の時代で、着ぶくれていた着物を一枚剥ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、しだいに裸になって・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・「どっちにせ、青井の奴ァ、三年たっても自分じゃいえない男だから」 それでまた夫婦がわらい声をたててから、こんどは急に気がついたふうに嫁さんは、顔をかくしていたうちわを離すと、「ね、青井さん」 三吉があわてて電灯の灯の方へ顔を・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ わたくしが小学生のころには草花といえばまず桜草くらいに止って、殆どその他のものを知らなかった。荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草が多くあったのを聞きつたえて、草鞋ばきで採集に出かけた。この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区内の陋巷となり、・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・瞽女といえば大抵盲目である。手引といって一人位は目明きも交る。彼らは手引を先に立てて村から村へ田甫を越える。げた裾から赤いゆもじを垂れてみんな高足駄を穿いて居る。足袋は有繋に白い。荷物が図抜けて大きい時は一口に瞽女の荷物のようだといわれて居・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・願う事の叶わばこの黄金、この珠玉の飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様である。白き腕のすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡きつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。しかし明日ストーヴに焼べられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思出がなければならない。平凡なる私の如きものも六十年の生涯を回顧して、転た水の流と人の行末という如き感慨に・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・ どちらかといえば、深谷のほうがこんな無気味な淋しい状態からは、先に神経衰弱にかかるのが至当であるはずだった。 色の青白い、瘠せた、胸の薄い、頭の大きいのと反比例に首筋の小さい、ヒョロヒョロした深谷であった。そのうえ、なんらの事件の・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・食べる人もあるが、それは食通とはいえない。イイダコ カニやイイダコ釣りも小さいころからよくやった。丸アミの中心にイワシの頭をくくりつけ、ラムネのびんをオモリにして沈めておけば、カニはその中に入って来る。このごろ、子供たちがよ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・「いいえ、何にも言ッてらッしゃりはしませんかッたよ。何だか変ですことね。どうかなすッたんですか」「どうもしやアしない。なに、どうするものか」「じゃア、あちらへ参りましょうよ」「あちらへ」「去り跡になりましたから、花魁のお・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫