・・・彼には、そのやり方が、まだ足りなかったようで、遺憾に堪えないものがあった。「俺は中尉だ、兵卒とは違うんだ! どうしてそれが露助に分らんのだろう! どうして分らんのだろう!」 が、彼は、軍隊の要領は心得ていたので、本当の自分の心持は、・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ハテ好い鐙だナ、と立留って視ると、如何にも時代といい、出来といい、なかなかめったにはない好いものだが、残念なことには一方しかなかった。揃っていれば、勿論こんな店にあるべきものではないはずだが、それにしても何程というだろうと、価を聞くと、ほん・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 二十六日、いかがなしけん頭痛烈しくしていかんともしがたし。 二十七日、同じく頭痛す。 二十八日、少許の金と福島までの馬車券とを得ければ、因循日を費さんよりは苦しくとも出発せんと馬車にて仙台を立ち、日なお暮れざるに福島に着きぬ。・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・らは素より馬琴のためにこれを語るさえ余り気の毒な位の、至って些細な、下らぬものでありまして、名誉心と道義心との非常に強かった馬琴は、晩年に至りまして、これらの下らぬ類の著作を自分が試みたといわれるのを遺憾に思って、自らその書をもとめては焼き・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・もしまた人生に、社会的価値とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・影響のいかんにあると信じていた。今もかく信じている。 天寿はとてもまっとうすることができぬ。・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある。子孫の計がいまだならず、美田をいまだ買いえないで、その行く末を憂慮する愛着に出るのもあろう。あるいは単に臨終の苦痛を想像して、戦慄するのもあるかも知れぬ。・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・その死の社会的価値もまた、寿夭の如何に関するところはないのである。 人生、死に所を得ることはむつかしい。正行でも重成でも主税でも、短命にして、かつ生理的には不自然の死であったが、それでも、よくその死に所を得たもの、とわたくしは思う。その・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・て独り死出の山、三途の川を漂泊い行く心細さを恐るるのもある、現世の歓楽・功名・権勢、扨は財産を打棄てねばならぬ残り惜しさの妄執に由るのもある、其計画し若くば着手せし事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある、子孫の計未だ成らず、・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・七「他人のものを当にしちゃアいかん、他人のものを当にして物を貰うという心が一体賤しいじゃアないか」内儀「賤しいたって貴方、お米を買うことが出来ませんよ、今日も米櫃を払って、お粥にして上げましたので」七「それは/\苦々しいことで」・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・何か為て、働いて、それから頼むという気を起したらば奈何かね。」「はい。」と、男は額に手を宛てた。「こんなことを言ったら、妙な人だと君は思うかも知れないが――」と自分は学生生活もしたらしい男の手を眺めて、「僕も君等の時代には、随分困っ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
出典:青空文庫