・・・と、気味悪そうに返事をすると、匆々行きそうにするのです。「まあ、待ってくれ。そうしてその婆さんは、何を商売にしているんだ?」「占い者です。が、この近所の噂じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・病人も夜長の枕元に薬を煮る煙を嗅ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。 秋は益深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、や・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・実際又十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。…… けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代りに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼等は尊徳の教育・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・この男は確か左の腕に松葉の入れ墨をしているところを見ると、まだ狂人にならない前には何か意気な商売でもしていたものかも知れません。僕は勿論この男とは度たび風呂の中でも一しょになります。K君はこの男の入れ墨を指さし、いきなり「君の細君の名はお松・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・Mはタオルを頭からかぶってどんどん飛んで行きました。私は麦稈帽子を被った妹の手を引いてあとから駈けました。少しでも早く海の中につかりたいので三人は気息を切って急いだのです。 紆波といいますね、その波がうっていました。ちゃぷりちゃぷりと小・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・おとうさんやお母さんから頼まれていて、お前たちが死にでもしたら、私は生きてはいられないから一緒に死ぬつもりであの砂山をお前、Mさんより早く駈け上りました。でもあの人が通り合せたお蔭で助かりはしたもののこわいことだったねえ、もうもう気をつけて・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・そのくらいの意気があってもいいだろう。その代わり死んだ奴の画は九頭竜の手で後世まで残るんだ。沢本 なんという智慧のない計略を貴様は考え出したもんだ。そんなことを考え出した奴は、自分が先に死ぬがいいんだ。花田 俺が死んでいいかい。・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・どうして、この黒い上衣を着て、シルクハットを被った二十人の男が、この意識して、生きた目で、自分達を見ている、生きた、尋常の人間一匹を殺すことが出来よう。そんな事は全然不可能ではないか。 こう思って見ていると、今一秒時間の後に、何か非常な・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・A あれは尾上という人の歌そのものが行きづまって来たという事実に立派な裏書をしたものだ。B 何を言う。そんなら君があの議論を唱えた時は、君の歌が行きづまった時だったのか。A そうさ。歌ばかりじゃない、何もかも行きづまった時だった・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・「旨く行ったのね。」「旨く行きましたね。」「後で私を殺しても可いから、もうちと辛抱なさいよ。」「お稲さん。」「ええ。」となつかしい低声である。「僕は大空腹。」「どこかで食べて来た筈じゃないの。」「どうして貴方・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
出典:青空文庫