・・・私がそのカフェの隅の倚子に坐ると、そこの女給四人すべてが、様様の着物を着て私のテエブルのまえに立ち並んだ。冬であった。私は、熱い酒を、と言った。そうしてさもさも寒そうに首筋をすくめた。活動役者との相似が、直接私に利益をもたらした。年若いひと・・・ 太宰治 「逆行」
・・・風がわりの作家、笠井一の縊死は、やよいなかば、三面記事の片隅に咲いていた。色様様の推察が捲き起ったのだけれども、そのことごとくが、はずれていた。誰も知らない。みやこ新聞社の就職試験に落第したから、死んだのである。 落第と、はっきり、きま・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・私は鎌倉の山で縊死を企てた。 やはり鎌倉の、海に飛び込んで騒ぎを起してから、五年目の事である。私は泳げるので、海で死ぬのは、むずかしかった。私は、かねて確実と聞いていた縊死を選んだ。けれども私は、再び、ぶざまな失敗をした。息を、吹き返し・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・人ヴァレリイの呟きらしいが、自分は、この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを、これから毎月、この雑誌に、どんなに人からそのために、不愉快がられても、書いて行かなければならぬ、そのような、自分の意思によらぬ「時期」がいよいよ来たような・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・そこに兵站部があるから行って医師に見てもらうさ」 「まだ遠いですか?」 「もうすぐそこだ。それ向こうに丘が見えるだろう。丘の手前に鉄道線路があるだろう。そこに国旗が立っている、あれが新台子の兵站部だ」 「そこに医師がいるでしょう・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・万象を時と空間の要素に切りつめた彼には色彩の美しさなどはあまりに空虚な幻に過ぎないかもしれない。 三元的な彫刻には多少の同情がある。特に建築の美には歎美を惜しまないそうである。 そう云えば音楽はあらゆる芸術の中で唯一の四元的のものと・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・これらはおそらくどちらも悪いかどちらも悪くないかである。意志が疏通しないから起こる誤解である。 しかしあらゆる誤解を予想してこれに備える事は神様でなければむつかしい。ここにも案内者と被案内者の困難がある。 私のやっかいになったポ・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ずっと大きくなってからよく両親から聞かされたところによると、その頃とかく虚弱であった自分を医師の勧めによって「塩湯治」に連れて行ったのだが、いよいよ海水浴をさせようとするとひどく怖がって泣き叫んでどうしても手に合わないので、仕方なく宿屋で海・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・それがまた特に合議者間に平素から意思の疎通を欠いでいるような場合だと、甲の持ち出す長所は乙の異議で疵がつき、乙の認める美点は甲の詮索でぼろを出すということが往々ある。結局大勢かかればかかる程みんなが「検事」の立場になって、「弁護士」は一人も・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・あまり頻繁に見に来ると猫の神経を刺激して病気にさわると言って医師から警告を受けて帰ったものもあった。 物を言わない家畜を預かって治療を施す医者の職業は考えてみるとよほど神聖なもののような気がした。入院中に受けた待遇についてなんらの判断も・・・ 寺田寅彦 「子猫」
出典:青空文庫