・・・余は夏蜜柑の皮を剥いて、一房ごとに裂いては噛み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間にやら幅一間ぐらいの小路に出た。この小路の左右に並ぶ家には門並方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしと云う声が・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ 木更津汐干の場の色彩はごちゃごちゃして一見厭になりました。御成街道にペンキ屋の長い看板があるから見て、御覧なさい。 楠一族の色彩ははなはだよろしい。第一調和しているようです。正成の細君は品があってよござんす、あの子も好い。みんな好・・・ 夏目漱石 「虚子君へ」
・・・先生はその頃もう四十を越えておられ、一見哲学者らしく、前任者とコントラストであった。最初にショーペンハウエルについて何か講義せられたように記憶している。この先生の講義はブッセ教授と異って机に坐ったままで低声で話された。ケーベルさんは始めて日・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・がら、其実は支那台の西洋鍍金にして、殊に道徳の一段に至りては常に周公孔子を云々して、子女の教訓に小学又は女大学等の主義を唱え、家法最も厳重にして親子相接するにも賓客の如く、曾て行儀を乱りたることなく、一見甚だ美なるに似たれども、気の毒なるは・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・そんなら今が幸福だと満足して、此上に社会改良も何も不必要かと云うに然うでもない、大変パラドクサルになって了って……ある意味じゃ此儘幸福だが、他の意味じゃ不幸福だ。一見矛盾しているようだが私の心では為て居らん。ここが象徴派と同じ所へ来ている証・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・随分無趣味な装飾ではあるが、住心地の悪くなさそうな一間である。オオビュルナンは窓の下にある気の利いた細工の長椅子に腰を掛けた。 オオビュルナンは少し動悸がするように感じて、我ながら、不思議だと思った。相手の女が同じ人であるだけに、過ぎ去・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・母は静に扉を開きて出で、静に一間の中母。この部屋の空気を呼吸すれば、まあ、どれだけの甘い苦痛を覚える事やら。わたしがこの世に生きていた間の生活の半分はラヴェンデルの草の優しい匂のように、この部屋の空気に籠っている。人の母の生涯という・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀が三枚ばかり載せてあって、その東側から登りかけて居る糸瓜は十本ほどのやつが皆瘠せてしもうて、まだ棚の上までは得取りつかずに居る。花も二、三輪しか咲いていない。正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭はそ・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・この一行は根岸を出て田端から汽車に乗って、飛鳥山の桜を一見し、それからあるいて赤羽まで往て、かねて碧梧桐が案内知りたる汽車道に出でて土筆狩を始めたそうな。自分らの郷里では春になると男とも女とも言わず郊外へ出て土筆を取ることを非常の楽しみとし・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・みちから一間ばかり低くなって蘆をこっちがわに塀のように編んで立てていたのでいままで気がつかなかったのだ。老人は蘆の中につくられた四角なくぐりを通って家の横に出た。二人はみちから家の前におりた。(とき、とき、お湯持って来老人は叫んだ。家の・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
出典:青空文庫