・・・路地の入り口で牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯など一銭天婦羅を揚げて商っている種吉は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉をこねる真似した。近所の小供たちも、「おっさん、はよ牛蒡揚げてんかいナ」と待てしばしがなく、「よっし・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・家には一銭の現金もない筈だ。いろんな払いも滞っている。だから、珈琲どころではないのだ。おまけに、それだけではない。顔を見ているだけでも辛い松本と、どうして一緒に行けようか。 渋っているのを見て、「ねえ、お行きやすな」 雪の降る道・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・私はただ自分の菲才を知っているから、人よりはすくなく寝て、そして人よりは多くの金を作品のために使い、作品がかせぎ出した金は一銭も残そうとしなかっただけだ。私は新円と旧円のきりかえの時、二百円しか金がなかった。今でもそうだ。印税がはいってもす・・・ 織田作之助 「私の文学」
・・・車を下りし時は霧雨やみて珍しくも西の空少しく雲ほころび蒼空の一線なお落日の余光をのこせり。この遠く幽かなる空色は夏のすでに近きを示すがごとく思われぬ。されど空気は重く湿り、茂り合う葉桜の陰を忍びにかよう風の音は秋に異ならず、木立ちの夕闇は頭・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・聴き捨てにする人は少なく、一銭二銭を彼の手に握らして立ち去るが多かった。 二 同じ年の夏である。自分は家族を連れて鎌倉に暑さを避け、山に近き一小屋を借りて住んでいた。ある夜のこと、月影ことに冴えていたので独り散歩して・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・九段の公園で砂書きの翁を見て、彼はただちにこれともの語り、事情を明して弟子入りを頼み、それより二三日の間稽古をして、間もなく大道のかたわらに坐り、一銭、五厘、時には二銭を投げてもらってでたらめを書き、いくらかずつの収入を得た。 ある日、・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・朝早くから、晩におそくまで田畑で働き、夜は、欠かさず夜なべをした。一銭でも借金を少くしたかったのである。 おしかはぶつ/\云い乍らも、為吉が夜なべをつゞけていると、それを放っておいて寝るようなこともしなかった。 戸外には、谷間の嵐が・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・主人は訳はわからぬが、其一閃の光に射られて、おのずと吾が眼を閉じて了った。「この女めも、弁口、取りなし、下の者には十二分の出来者。しかも生命を捨ててもと云居った、うその無い、あの料簡分別、アア、立派な、好い侍、かわゆい、忠義の者ではある・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・しかし、私のうちにはお金は一銭も無いんです。お父さんはモウ六ヵ月も仕事がなくて、姉も妹もロクロクごはんがたべられなくて、だんだん首がほそくなって、泣いてばかりいます。私が学校から帰えって行くたびに、うちの中がガランガランとかわってゆくのです・・・ 小林多喜二 「級長の願い」
・・・ だが、さすがにこの赤色別荘は、一銭の費用もかゝらないし、喜楽的などころか、毎日々々が鉄の如き規律のもとに過ぎてゆくのだ――然し、それは如何にも俺だちにふさわしいので、面白いと思っている。「さ、これから赤色体操を始めるんだぞ。」・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫