・・・ 母としての女性の使命はこのほかにまた、「時代を産む母」としてのそれがあることを忘れてはならぬ。女性の天賦の霊性と直観力とで、歴史と社会との文化史的向上の方向を洞察して、時代をその方向に導くように、男子を促し、鞭韃し、また自ら立ってその・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・そこに個人生活と社会生活との不調和を生じて悲劇を生むものであるが、それらのいきさつについてあまりに厳しく裁いてはならない。これはもとより望ましきものではないが、それは人間苦悩の哀れむべき相であって、またそれを通じて美しき人間性の発露もあり得・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・「栗島が出した札かい?」局員はきゝかえした。その声に疑問のひゞきがあった。「あゝ、そうだ。」「たしかだね?」「うむ、そうだ。そうに違いない。」 眼鏡を掛けた、眼つきの悪い局長が、奥の部屋から出て来た。局長は疑ぐるように、・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・「うまいかい?」「うむ。」「つめたいだろう。」 彼等は、残飯桶の最後の一粒まで洗面器に拾いこむと、それを脇にかかえて、家の方へ雪の丘を馳せ登った。「有がとう。」「有がとう。」「有がとう。」 子供達の外套や、袴・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・「やったろうか!」彼は後藤に囁いた。「うむ。」後藤の眼はうなずいた。 彼はゆさ/\崩れそうにゆれる薪の上を歩いている宗保に手で合図をした。 宗保が、揺れる薪の上からおりて来ると、三人は、スパイが居眠りをしているのとは反対の北・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・ 商人は、次の農家で、橇と馬の有無をたしかめ、それから玄関を奥へ這入って行った。 そこでも、金はいくらでも出す、そう彼は持ちかけた。そこが纏ると、又次へ橇を馳せた。 日本人への反感と、彼の腕と金とが行くさきざきで闘争をした。そし・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・家の鶏が産む卵だけでは足りなくって、おしかは近所へ買いに行った。端界に相場が出るのを見越して持っていた僅かばかりの米も、半ばは食ってしまった。それでもおしかは十月の初めに清三が健康を恢復して上京するのを見送ると、自分が助かったような思いでほ・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・、六朝仏印度仏ぐらいでは済度されない故、夏殷周の頃の大古物、妲己の金盥に狐の毛が三本着いているのだの、伊尹の使った料理鍋、禹の穿いたカナカンジキだのというようなものを素敵に高く買わすべきで、これはこれ有無相通、世間の不公平を除き、社会主義者・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・「ううむ、どっこいしょ。」なかなか重い様子でした。お母さんは七十近いけれど、目方は十五、六貫もそれ以上もあるような随分肥ったお方です。「大丈夫だ、大丈夫。」と言いながら、そろそろ梯子を上り始めて、私はその親子の姿を見て、ああ、あれだ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・うだ。ランキのランは、言うという字に糸を二つに山だ。深山の精気といってもいいだろう。おどろくべきものだ。ううむ。」やたらに唸るのである。私は恥ずかしくてたまらない。「山椒魚がお気にいったとは意外です。どこが、そんなにいいんでしょう。もっ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫