・・・「申し残された」の一言が母の胸には釘であった。「おおいかに新田の君は愛でとう鎌倉に入りなされたか」「まだ、さては伝え聞きなさらぬか。堯寛にあざむかれなされて、あえなくも底の藻屑と……矢口で」「それ、さらば実でおじゃるか。それ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・そのほかはすべて雨ざらしで鳥や獣に食われるのだろう、手や足がちぎれていたり、また記標に取られたか、首さえもないのが多い。本当にこれらの人々にもなつかしい親もあろう、可愛らしい妻子もあろう、親しい交わりの友もあろう、身を任せた主君もあろう、そ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・親としての作家と、作家としての作家と、区別はないようであるけれども、駄作を承認する襟度に一層の自信を持つようになったのは、親としての作家が混合して来た結果である場合によることが多いと思われる。人間が行動するとき、子のあるものと子のないものと・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・ 彼は妻の上へ蔽い冠さるようにして、吸入器の口を妻の口の上へあてていた。――逃がしはせぬぞ、というかのように、妻の母は娘の苦しむ一息ごとに、顔を顰めて一緒に息を吐き出した。彼は時々、吸入器の口を妻の口の上から脱してみた。すると彼女は絶え・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・これから内へ帰りましても、わたくしはやっぱり一人でいることが多いのでございます。」 フィンクは「お内はどこですか」と云おうと思ったが言う暇がなかった。女が構わずに語り続けるからである。そしてその女の声は次第に柔かに次第に夢のようになって・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・これから起こる事も恐らく予期をはずれた事が多いでしょう。私はいろいろな事を考えたあとでいつも「明日の事を思い煩うな」という聖語を思い出し、すべてを委せてしまう気になります。そうしてどんな事が起ころうとも勇ましく堪えようと決心します。 し・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・ もちろん著者が顕著に個人主義的傾向を持つことは覆い難い。日本の文化や日本人の特性が批判せられるに当たって最も目につくことは個人の自覚の不足が指摘せられている点である。この不足のゆえに公共生活の訓練が不充分であり、従ってあらゆる都市の経・・・ 和辻哲郎 「『青丘雑記』を読む」
出典:青空文庫