・・・「どれ、兎に角、帰ることにしようか、オイ、俺はもう帰るぜ」 私は、いつの間にか女の足下の方へ腰を、下していたことを忌々しく感じながら、立ち上った。「おめえたちゃ、皆、ここに一緒に棲んでいるのかい」 私は半分扉の外に出ながら振・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・本見世と補見世の籠の鳥がおのおの棲に帰るので、一時に上草履の音が轟き始めた。 三 吉里は今しも最後の返辞をして、わッと泣き出した。西宮はさぴたの煙管を拭いながら、戦える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。 燭台の蝋・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一 婦人は夫の家を我家とする故に唐土には嫁を帰るといふなり。仮令夫の家貧賤成共夫を怨むべからず。天より我に与へ給へる家の貧は我仕合のあしき故なりと思ひ、一度嫁しては其家を出ざるを女の道とする事、古聖人の訓也。若し女の道に背き、去・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・今の法律を改めて旧套に返るべきや。平民の乗馬を禁ずべきや。次三男の自主独立をとどむべきや。 これを要するに、開進の今日に到着して、かえりみて封建世禄の古制に復せんとするは、喬木より幽谷に移るものにして、何等の力を用うるも、とうてい行わる・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・聖人は赤児の如しという言葉が、其に幾らか似た事情で、かねて成り度いと望んでた聖人に弥々成って見れば、やはり子供の心持に還る。これ変ったと云えば大に変り、変らんと云えば大に変らん所じゃないか。だから先きへばかり眼を向けるのが抑の迷い。偶には足・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・主人は今晩帰るはずになっています。わたくしはもう夫に怨を申すことは出来ません。それは自分がほとんど同じような不実をいたしたからでございます。 わたくしはこれまでのような、単調な生活を続けてまいりましょう。田舎の女にはそれが当り前なのでご・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・これを聞いている間は、何だか己の性命が暖かく面白く昔に帰るような。そして今まで燃えた事のある甘い焔が悉く再生して凝り固った上皮を解かしてしまって燃え立つようだ。この良心の基礎から響くような子供らしく意味深げな調を聞けば、今まで己の項を押屈め・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・疲れてもまた元に返る力の消長の中に暖かい幸福があるのだ。あれあれ、今黄金の珠がいざって遠い海の緑の波の中に沈んで行く。名残の光は遠方の樹々の上に瞬をしている。今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・『万葉』の「うれむぞこれが生返るべき」などいえるに比すれば句勢に霄壌の差あり。緇素月見樒つみ鷹すゑ道をかへゆけど見るは一つの野路の月影 この歌は『古今』よりも劣りたる調子なり。かくのごとき理屈の歌は「月を見る」と・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・御酒そなへおく設け題よみてもてくる歌どもを神の御前にならべもてゆくことごとく歌よみいでし顔を見てやをら晩食の折敷ならぶる汁食とすすめめぐりてとぼしたる火もきえぬべく人突あたる戸をあけて還る人々雪しろくたまれりといひてわびわび・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫