・・・いずれにしてもその原因は、思想なり感情なりの上で、自分よりも菊池の方が、余計苦労をしているからだろうと思う。だからもっと卑近な場合にしても、実生活上の問題を相談すると、誰よりも菊池がこっちの身になって、いろ/\考をまとめてくれる。このこっち・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・二人は冷酒の盃を換わしてから、今日までの勘定をすませた後、勢いよく旅籠の門を出た。 外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院の門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・けれども年を勘定すれば生まれる前を六十としても、かれこれ百十五六にはなるかもしれない。」 僕は部屋の中を見まわしました。そこには僕の気のせいか、質素な椅子やテエブルの間に何か清らかな幸福が漂っているように見えるのです。「あなたはどう・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・僕はその芦の中に流れ灌頂や馬の骨を見、気味悪がったことを覚えている。それから小学校の先輩に「これはアシかヨシか?」と聞かれて当惑したことも覚えている。 二五 寿座 本所の寿座ができたのもやはりそのころのことだった。僕・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・その名は彼れの感情を少しも動かす力にはならなかった。彼れはそうしたままで深い眠りに落ちてしまった。 彼れは夜中になってからひょっくり小屋に帰って来た。入口からぷんと石炭酸の香がした。それを嗅ぐと彼れは始めて正気に返って改めて自分の小屋を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 単に利害勘定からいっても、私の父がこの土地に投入した資金と、その後の維持、改良、納税のために支払った金とを合算してみても、今日までの間毎年諸君から徴集していた小作料金に比べればまことにわずかなものです。私がこれ以上諸君から収めるのは、・・・ 有島武郎 「小作人への告別」
・・・が、あのまだ物を見ている、大きく開けた目の上に被さる刹那に、このまだ生きていて、もうすぐに死のうとしている人の目が、外の人にほとんど知れない感情を表現していたのである。それは最後に、無意識に、救を求める訴であった。フレンチがあれをさえ思い出・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾なくその美しさを発揮しているかを。 かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければなら・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 知ることの浅く、尋ぬること怠るか、はたそれ詣ずる人の少きにや、諸国の寺院に、夫人を安置し勧請するものを聞くこと稀なり。 十歳ばかりの頃なりけん、加賀国石川郡、松任の駅より、畦路を半町ばかり小村に入込みたる片辺に、里寺あり、寺号は覚・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 祖母は、その日もおなじほどの炎天を、草鞋穿で、松任という、三里隔った町まで、父が存生の時に工賃の貸がある骨董屋へ、勘定を取りに行ったのであった。 七十の老が、往復六里。……骨董屋は疾に夜遁げをしたとやらで、何の効もなく、日暮方に帰・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
出典:青空文庫