・・・翌朝は臥床を離れる元気がなかった。五月二十七日と二十八日とは好天気であったので、戸外の美しい日光の下でお茶に呼ばれるために、二階からやっと下りて来た。六月一日長子が週末で帰省したときに、自分はもう永くはないが、ただ一つ二つ仕上げておきたいこ・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・三人は思い思いに臥床に入る。 三十分の後彼らは美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹を攀じ上った事も、蓮の葉に下りた蜘蛛の事も忘れた。彼らはようやく太平に入る。・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・青き戸帳が物静かに垂れて空しき臥床の裡は寂然として薄暗い。木は何の木か知らぬが細工はただ無器用で素朴であるというほかに何らの特色もない。その上に身を横えた人の身の上も思い合わさるる。傍らには彼が平生使用した風呂桶が九鼎のごとく尊げに置かれて・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 目の廻る程急がしい用意の為めに、昼の間はそれとなく気が散って浮き立つ事もあるが、初夜過ぎに吾が室に帰って、冷たい臥床の上に六尺一寸の長躯を投げる時は考え出す。初めてクララに逢ったときは十二三の小供で知らぬ人には口もきかぬ程内気であった・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 五 平田は臥床の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰き眼を合り、後眥からは涙が頬へ線を画き、下唇は噛まれ、上唇は戦えて、帯を引くだけの勇気・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 雨のしとしとと降る裡を今に私共はこの妹を静かに安らえるために永久の臥床なる青山に連れて居かなければならない。黒い紋附に袴をはく。 棺前祭の始まる少し前あの妹を可愛いがって居て呉れたお敬ちゃんが来て呉れた。 涙をためて雨の中を送・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・まだ臥床。おカユ。食欲が出ないでいけません。私はどんなに参ってもすぐ食欲は恢復したのに、癪ね。今日は私は癒る確信がつきました。御安心下さい。本当はね。笑い草ですが、余り頭が苦しくて昏々と眠るからね、もしかしたらこの頃流行の嗜眠性脳炎ではない・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・はでなサロン向の画商との所謂大家的取引とは何と違うでしょう。ゴッホは自分の弟を最も信頼する画商として持っていました。ルノアールは水ぽい絵描きですが、セザンヌに対しては厚い心を持っていた様です。この伝記とチャンポンに小説を読みましょう。実に小・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 人工流産を小さい番号札と最大限二十五―三十留までの金と三日の臥床とにだけ圧搾して考えるСССР的無智を啓蒙するために映画「第三メシチャンスカヤ街の恋」はどの程度に役立ったであろうか。第三メシチャンスカヤ街は労働者町だ。 良人とその・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・ これからは青草も多く心のままに得られるだろうけれ共雪ばかり明け暮れ降りしきる北の国に定められた臥床もなくて居る時はさぞわびしいだろう。 あんまり自由すぎて育てられた子供の様な気で居るに違いない。 私はこんな事も思った。 そ・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
出典:青空文庫