・・・ 私はむかむかッとして来た、筆蹟くらいで、人間の値打ちがわかってたまるものか、近頃の女はなぜこんな風に、なにかと言えば教養だとか、筆蹟だとか、知性だとか、月並みな符号を使って人を批評したがるのかと、うんざりした。「奥さんは字がお上手・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「そこだよ、君に何処か知ら脱けてる――と云っては失敬だがね、それは君は自分に得意を感じて居る人間が、惨めな相手の一寸したことに対しても持ちたがる憤慨や暴慢というものがどんな程度のものだかということを了解していないからなんだよ。それに一体・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ああ仕方がない、もうこの上は何でも欲しがるものを皆やりましょう、そして心残りの無いよう看護してやりましょうと思いました。 此の時分から彼は今まで食べていた毎日の食物に飽きたと言い、バターもいや、さしみや肉類もほうれん草も厭、何か変った物・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。 ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている! いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
・・・この車夫は車も衣装も立派で、乗せていた客も紳士であったが、いきなり人車を止めて、「何をしやアがるんだ、」と言いさま、みぞの中の親父に土の塊を投げつけた。「気をつけろ、間抜けめ」と言うのが捨てぜりふで、そのまま行こうとすると、親父は承知し・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・無造作な髪、嵐にあがる前髪の下の美しい額。だが自分から銅貨を受取ったときの彼女の悲しそうな目なざしは何だろう。道々いろいろなことが考えられる。理想的社会の建設――こうしたことまで思い及ぼされるようでなければならぬ。 学生時代の恋愛はその・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・海上生活者が港にあこがれ、陸を恋しがるように、彼等は、内地にあこがれ、家庭を恋しがった。 彼等の周囲にあるものは、はてしない雪の曠野と、四角ばった煉瓦の兵営と、撃ち合いばかりだ。 誰のために彼等はこういうところで雪に埋れていなければ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・またわざわざかかりへ行きたがる人もある位。古い澪杙、ボッカ、われ舟、ヒビがらみ、シカケを失うのを覚悟の前にして、大様にそれぞれの趣向で遊びます。いずれにしても大名釣といわれるだけに、ケイズ釣は如何にも贅沢に行われたものです。 ところで釣・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・私はそんなことを口惜しがる必要はない。早く出て来てくれてよかったといゝました。 娘が家に帰ってくると、自分たちのしている色んな仕事のことを話してきかせて、「お母さんはケイサツであんなに頭なんか下げなくったっていゝんだ。」といゝました。娘・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・夕飯後の茶の間に家のものが集まって、電燈の下で話し込む時が来ると、弟や妹の聞きたがる怪談なぞを始めて、夜のふけるのも知らずに、皆をこわがらせたり楽しませたりするのも次郎だ。そのかわり、いたずらもはげしい。私がよく次郎をしかったのは、この子を・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫