・・・「はい、貴下の妻でございます。」 その時尉官は傲然として俯向けるお通を瞰下しつつ、「吾のいうことには、汝、きっと従うであろうな。」 此方は頭を低れたるまま、「いえ、お従わせなさらなければ不可ません。」 尉官は眉を動か・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・(烈しく再び耳を圧何を聞くのか知らないけれど、貴下この二三日の様子じゃ、雷様より私は可恐いよ。早瀬 やあ、ほんとに、わなわな震えて。お蔦 ええ、たとい弱くッて震えても、貴方の身替りに死ねとでも云うんなら、喜んで聞いてあげます。貴方が・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ なよやかな白い手を、半ば露顕に、飜然と友染の袖を搦めて、紺蛇目傘をさしかけながら、「貴下、濡れますわ。」 と言う。瞳が、動いて莞爾。留南奇の薫が陽炎のような糠雨にしっとり籠って、傘が透通るか、と近増りの美しさ。 一帆の濡れ・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・十年前だった、塚原靖島田三郎合訳と署した代数学だか幾何学だかを偶然或る古本屋で見附けた。余り畑違いの著述であるのを不思議に思って、それから間もなく塚原老人に会った時に訊くと、「大変なものを見附けられた。アレはネ……」と渋柿園老人は例の磊落な・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・情 只道下佳人命偏に薄しと 寧ろ知らん毒婦恨平らぎ難きを 業風過ぐる処花空しく落ち 迷霧開く時銃忽ち鳴る 狗子何ぞ曾て仏性無からん 看経声裡三生を証す 犬塚信乃芳流傑閣勢ひ天に連なる 奇禍危きに臨んで淵を測らず きほ敢て忘れ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・それで来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには少くとも幾何の遺物を貯えておきたい。この一年の後にわれわれがふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のために・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・そこには、幾何、流浪の旅に上った芸術家があったか知れない。そこには同志を求めて、追われ、迫害されて、尚お、真実に殉じた戦士があったか知れない。 彼等は、この憧憬と情熱とのみが、芸術に於て、運動に於て、同じく現実に虐げられ、苦しみつゝある・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・ 彼等にせめて、一日のうち、もしくは、一週間のうち幾何かの間を、全く、交通危険に晒らされることから解放して、自由に跳躍し遊戯せしむることを得せしめるのは、たゞそれだけで意義のあることではないか。また暑中休暇の期間だけ、閑静な処にて自然に・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・「長崎あたりに来ているロシア人は、ポケットに、もはや幾何しかの金がなくても、それを憂えずに、人生について論議している……」と、いうような話をきいたことがある。その時も、私は、感激を覚えたのです。 何となく私には、幽暗なロシア――・・・ 小川未明 「自分を鞭打つ感激より」
・・・ 思うに、半分は、屑とされて消滅し、半分は、自然消滅に帰するものと考えられますが、その中、幾何良書として後世にまで残存するであろうか。印刷術と製本術とが、機械でされるようになって以来、生産の簡易化は、全く書物に対する考え方を変えてしまい・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
出典:青空文庫