・・・そうかといって太十はなかなか義理が堅いので何事かあると屹度兄の家へ駈けつける。然し彼は何事に就いても少しの意見もなければ自ら差し出てどうということもない。気に入らぬことがあれば独でぶつぶつと怒って居る。そうした時は屹度上脣の右の方がびくびく・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・しかし、御懇切の御招待ですから義理にもと思いまして体だけ出懸けて参りました。別に面白いお話も出来ません、前申した通り体だけ義理にもと出かけたわけであります。 私のやる演題はこういう教育会の会場での経験がないのでこまりました。が、名が教育・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・それから、こんな事は云えた義理ではないんだが、僕の留守の者たちの事も気にかかる。若し、出来ればおふくろや子供の面倒を見てやって貰いたい。自重健闘を祈る。―― 吉田は、紙切れに鉛筆で走り書きをして、母に渡した。「これを依田君に渡し・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・誰かのように、実情がないんじゃアなし、義理を知らないんじゃアなし……」 平田はぷいと坐を起ッた。「お便所」と、小万も起とうとする。「なアに」と、平田は急いで次の間へ行ッた。「放擲ッておおきよ、小万さん。どこへでも自分の好きなとこ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・文法を知らざれば、書を読みて、その義理を解する事、能わず。我が言葉をもって我が意を達するに足らず。言葉、意を達するに足らざるものは、唖子に異ならず。第三、地理書 地球の運転、山野河海の区別、世界万国の地名、風俗・人情の異同を・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・こいつにも余り福をやりたくないのであるが、しかし大鷲大明神なかなか慾ばって居るからこれくらいの熊手を買うてもろうた義理に少しは掻き込んでやるかもしれない。……………仲町を左へ曲って雪見橋へ出ると出あいがしらに、三十四、五の、丸髷に結うた、栗・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」大学士はこの語を聞いてすっかり愕ろいてしまう。「どうも実に記憶のいいやつらだ。ええ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまっているのかい。まさか忘れはしない・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・かつて長谷川如是閑氏は、個人的感情を階級の義務の前に殉ぜしめることを主題としたプロレタリア文学に対して、「新しいつもりか知らぬが、義理のしがらみに身をせめられる義太夫のさわりと大差ない」という意味の評をしたことがある。私はその言葉を心に印さ・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・しかし金を借りた義理があるので、杯をさして団欒に入れた。 暫く話をしているうちに、下島の詞に何となく角があるのに、一同気が附いた。下島は金の催促に来たのではないが、自分の用立てた金で買った刀の披露をするのに自分を招かぬのを不平に思って、・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・したがって彼は、義理にしたがって動くのではなく、外聞を本にして動く。たとえば、けちだと言われまいと思って知行を多く与える類である。強い大将ならば、必要あって物を蓄える時には、貪欲と言われようと、意地ぎたないと言われようと、頓着しない。知行は・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫