・・・秋のマチというと一度必ず隊伍を組んだ瞽女の群が村へ来る。其同勢のうちにお石は必ず居たのである。晩秋の収穫季になると何処でも村の社の祭をする。土地ではそれをマチといって居る。マチは村落によって日が違った。瞽女はぐるぐるとマチを求めて村々をめぐ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・演説者はぴたりと演説をやめてつかつかとこの村夫子のたたずめる前に出て来る。二人の視線がひたと行き当る。演説者は濁りたる田舎調子にて御前はカーライルじゃないかと問う。いかにもわしはカーライルじゃと村夫子が答える。チェルシーの哲人と人が言囃すの・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・第一爪をはがす鑿と、鑿を敲く槌と、それから爪を削る小刀と、爪を刳る妙なものと、それから……」「それから何があるかい」「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいには驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気で・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・然るに歳漸く不惑に入った頃、如何なる風の吹き廻しにや、友人の推輓によってこの大学に来るようになった。来た頃は留学中の或教授の留守居というのであったが、遂にここに留まることとなり、烏兎怱々いつしか二十年近くの年月を過すに至った。近来はしばしば・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・の第一頁を読むだけでも、独逸的軍隊教育の兵式体操を課されたやうで、身体中の骨節がギシギシと痛んで来る。カントは頭痛の種である。しかし一通り読んでしまへば、幾何学の公理と同じく判然明白に解つてしまふ。カントに宿題は残らない。然るにニイチェはど・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・すると、私の声と同時に、給仕でも飛んで出て来るように、二人の男が飛んで出て来て私の両手を確りと掴んだ。「相手は三人だな」と、何と云うことなしに私は考えた。――こいつあ少々面倒だわい。どいつから先に蹴っ飛ばすか、うまく立ち廻らんと、この勝負は・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・丸アミの中心にイワシの頭をくくりつけ、ラムネのびんをオモリにして沈めておけば、カニはその中に入って来る。このごろ、子供たちがよくカニとりに行き、何十匹もとって来てオカズ代りになることが多い。しかし、これはほとんど技術が入らず、釣りのうちに入・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・よく来るじゃアないか」と、小万は小声で言ッて眉を皺せた。「察しておくれよ」と、吉里は戦慄しながら火鉢の前に蹲踞んだ。 張り替えたばかりではあるが、朦朧たる行燈の火光で、二女はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉しそ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・それに馬鹿に骨が折れて、脚が引っ吊って来る。まあ、やっぱり手を出して一文貰うか、パンでも貰うかするんだなあ。おれはこのごろ時たま一本腕をやる。きょうなんぞもやったのだ。随分骨が折れて、それほどの役には立たねえ。きまって出ている場所と、きまっ・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・斯く無造作に書並べて教うれば訳けもなきようなれども、是れが人間の天性に於て出来ることか出来ぬことか、人間普通の常識常情に於て行われることか行われぬことか、篤と勘考す可き所なり。実際に出来ぬことを勧め、行われぬことを強うるは、元々無理なる注文・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫