・・・ 四 喬は丸太町の橋の袂から加茂磧へ下りて行った。磧に面した家々が、そこに午後の日蔭を作っていた。 護岸工事に使う小石が積んであった。それは秋日の下で一種の強い匂いをたてていた。荒神橋の方に遠心乾燥器が草原に転っ・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ われを嘲けるごとく辰弥は椅子を離れ、庭に下り立ちてそのまま東の川原に出でぬ。地を這い渡る松の間に、乱れ立つ石を削りなして、おのずからなる腰掛けとしたるがところどころに見ゆ。岩を打ち岩に砕けて白く青く押し流るる水は、一叢生うる緑竹の中に・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・これを対岸から写すので、自分は堤を下りて川原の草原に出ると、今まで川柳の蔭で見えなかったが、一人の少年が草の中に坐って頻りに水車を写生しているのを見つけた。自分と少年とは四、五十間隔たっていたが自分は一見して志村であることを知った。彼は一心・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・ツァラツストラは知恵と力にふくれて山から下り、自己を与えんために民衆への没落を義務と感じ、「汝すべし」を「われは欲す」と顛倒することを宣した。 ディルタイもまた生命と個性との価値を強調した。彼は「全人」の活動を説き、「生」そのものの事実・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・そんな時、彼等は、帰りに、丘を下りながら、ひょいと立止まって、顔を見合わせ、からから笑った。「ソぺールニクかな。」「ソぺールニクって何だい?」「ソぺールニク……競争者だよ。つまり、恋を争う者なんだ。ははは。」 三・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・吾家の母さんが与惣次さんところへ招ばれて行った帰路のところへちょうどおまえが衝突ったので、すぐに見つけられて止められたのだが、後で母様のお話にあ、いくら下りだって甲府までは十里近くもある路を、夜にかかって食物の準備も無いのに、足ごしらえも無・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・長い廊下の両側には、錠の下りた幾十という独房がズラリと並んでいた。俺はその前を通ったとき、フトその一つの独房の中から低いしわぶきの声を耳にした。俺はその時、突然肩をつかまれたように、そのどの中にも我々の同志が腕を組み、眼を光らして坐っている・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・觀世善九郎という人が鼓を打ちますと、台所の銅壺の蓋がかたりと持上り、或は屋根の瓦がばら/\/\と落ちたという、それが為瓦胴という銘が下りたという事を申しますが、この七兵衞という人は至って無慾な人でございます。只宅にばかり居まして伎の事のみを・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・ 桜井先生は高瀬を連れて、新開の崖の道を下りた。先生がまだ男のさかりの頃、東京の私立学校で英語の教師をした時分、教えた生徒の一人が高瀬だった。その後、先生が高輪の教会の牧師をして、かたわらある女学校へ教えに行った時分、誰か桜井の家名・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・老人は丘を下りて河の方へ歩き出した。さて岸の白楊の枯木に背中を寄せかけて坐った。その顔には決断の色が見えている。槌で打ち固めたような表情が見えている。両膝を高く立てた。そしてそれを両腕で抱いた。さて頭をその膝頭に載せた。老人はこんな風に坐っ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
出典:青空文庫