・・・朝食の時、胃腑を軽快になさんがため、特にパンと牛乳だけですませて置いた事も、これでは、なんにもならない。この次女は、もともと、よほどの大食いなのである。上品ぶってパンと牛乳で軽くすませてはみたが、それでは足りない。とても、足りるものではない・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・結構ずくめの境界である。崇拝者に取り巻かれていて、望みなら何一つわないことはない。余り結構過ぎると云っても好い位である。 ドリスは可哀らしい情婦としてはこの上のない女である。不機嫌な時がない。反抗しない。それに好い女と云う意味から云えば・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・その友だちの植えた檜の木ももう蔭をなしていたが、最近行った時には、周囲の垣がこわれて、他の墓との境界がなくなっていた。――『東京の三十年』より―― 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ 職業的案内者がこのような不幸な境界に陥らぬためには絶えざる努力が必要である。自分の日々説明している物を絶えず新しい目で見直して二日に一度あるいは一月に一度でも何かしら今まで見いださなかった新しいものを見いだす事が必要である。それにはも・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・やっぱり西洋の踊りのように軽快で陽気で、日本の糸車のような俳諧はどこにもない。また、シューベルトの歌曲「糸車のグレーチヘン」は六拍子であって、その伴奏のあの特徴ある六連音の波のうねりが糸車の回転を象徴しているようである。これだけから見ても西・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・しかし映画が単なる複製の技術としてのただの活動写真というだけの境界から脱却して、それ自身の独自な領域を自覚するようになり、創作の新しいミリューとして発見されると同時に行なわれはじめた映画制作の方法がすなわちこのモンタージュである。言わば映画・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・あくどい蒼蠅さがわりに少なくて軽快な俳諧といったようなものが塩梅されているようである。例えばドライヴの途上に出て来るハイカラな杣や杭打ちの夫婦のスケッチなどがそれである。「野羊の居る風景」などもそれである。ただ残念に思うのは、外国の多くの実・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・それでアルベール自身の頭の中に経過しつつある不安な警戒の念が彼の絶えず移動する目のくばりに現われて、それが直ちに観客の頭に同じような感情の波動を伝えるのである。そうしておもしろいことにはこのシーンの伴奏となりまた背景ともなる音響のほうはなん・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・露骨な真実、平板な虚欺、その二つの世界の境界に中立地帯のようにしかも高次元の空間に組み立てられた俳諧の世界がある。実と虚と相接するところに虚実を超越した真如の境地があって、そこに風流が生まれ、粋が芽ばえたのではないかという気がするのである。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(※[#ローマ数字7、1-13-27])」
・・・そうするとその運動は非常に軽快に見え、そうして今にもわれわれに食ってかかりそうな無気味さを感じる。しかし顕微鏡下の微粒子をのぞいているつもりで見ていると感じはまるでちがったものになる。すべてが細かい蠢動になってしまうのである。薄暮の縁側の端・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
出典:青空文庫