・・・云わば彼の心もちは強敵との試合を目前に控えた拳闘家の気組みと変りはない。しかしそれよりも忘れられないのはお嬢さんと顔を合せた途端に、何か常識を超越した、莫迦莫迦しいことをしはしないかと云う、妙に病的な不安である。昔、ジァン・リシュパンは通り・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・「ええ、まあそんな見当です。」 神山はにやにや笑いながら、時計の紐をぶら下げた瑪瑙の印形をいじっていた。「あんな所に占い者なんぞがあったかしら。――御病人は南枕にせらるべく候か。」「お母さんはどっち枕だえ?」 叔母は半ば・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・彼は五年近く父の心に背いて家には寄りつかなかったから、今までの成り行きがどうなっているか皆目見当がつかなかったのだ。この場になって、その間の父の苦心というものを考えてみないではなかった。父がこうして北海道の山の中に大きな農場を持とうと思い立・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 七兵衛天窓を掻いて、「困らせるの、年月も分らず、日も分らず、さっぱり見当が着かねえが、」と頗る弱ったらしかったが、はたと膝を打って、「ああああ居た居た、居たが何、ありゃ売物よ。」と言ったが、菊枝には分らなかった。けれども記憶を・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 予は此の停車場へ降りたは、今夜で三回であるが、こう真暗では殆んど東西の見当も判らない。僅かな所だが、仕方がないから車に乗ろうと決心して、帰りかけた車屋を急に呼留める。風が強く吹き出し雨を含んだ空模様は、今にも降りそうである。提灯を車の・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・文学の忠僕たる小生は切に諸君の健闘を祈る。 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 秋の一夜偶然尋ねると、珍らしく微醺を帯びた上機嫌であって、どういう話のキッカケからであったか平生の話題とは全で見当違いの写真屋論をした。写真屋の資本の要らない話、資本も労力も余り要らない割合には楽に儲けられる話、技術が極めて簡単だから・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・すべてのことが私には見当がつかなかった。 其れから数日の後であった。私は散歩から家に帰って来ると長屋の前に荷車があった。それにいろ/\の諸道具が載せられていた。小さな箪笥もあった。しかしすべて一台で足りたのである。軒下には窶れた卅五六の・・・ 小川未明 「ある日の午後」
・・・また新しい思想が入って来れば、それを検討せずに、たゞちに信ずるという風があります。けれど、それが自分達のものとなるには、それに伴う特異性のあることも考えなければならない。そうした認識と批判とを没しさせる、最大な原因は、今日の資本主義に基点を・・・ 小川未明 「文化線の低下」
・・・果して、彼等の幾何、再検討を請求して、敢て恥ざるものがあるか、ということである。孤行高しとすることこそ、芸術家の面目でなければならぬ、衆俗に妥協し、資本力の前に膝を屈した徒の如きは、表面いかに、真摯を装うことありとも、冷徹たる批評眼の前に、・・・ 小川未明 「ラスキンの言葉」
出典:青空文庫