・・・するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、やはり薬を貰いに来ている一人の仲間と落ち合った。それが恩地小左衛門の屋敷のものだと云う事は、蘭袋の内弟子と話している言葉にも自ら明かであった。彼はその仲間が帰ってから、顔馴染の内弟子に向って、「恩地殿のよう・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・――半三郎は何かに追われるように社宅の玄関へ躍り出た。それからほんの一瞬間、玄関の先に佇んでいた。が、身震いを一つすると、ちょうど馬の嘶きに似た、気味の悪い声を残しながら、往来を罩めた黄塵の中へまっしぐらに走って行ってしまった。…… そ・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・引きはなすようにしてお前たちを母上から遠ざけて帰路につく時には、大抵街燈の光が淡く道路を照していた。玄関を這入ると雇人だけが留守していた。彼等は二三人もいる癖に、残しておいた赤坊のおしめを代えようともしなかった。気持ち悪げに泣き叫ぶ赤坊の股・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・……いま、すぐ、玄関へ出ますわ、ごらんなさいまし。」 真暗な杉に籠って、長い耳の左右に動くのを、黒髪で捌いた、女顔の木菟の、紅い嘴で笑うのが、見えるようで凄じい。その顔が月に化けたのではない。ごらんなさいましという、言葉が道をつけて、隧・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 今度はね、大百姓……古い農家の玄関なし……土間の広い処へ入りましたがね、若い人の、ぴったり戸口へ寄った工合で、鍵のかかっていないことは分っています。こんな蒸暑さでも心得は心得で、縁も、戸口も、雨戸はぴったり閉っていましたが、そこは古い・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 僕が、あたまが重いので、散歩でもしようと玄関を出ると、向うから、車の上に乳飲み児を抱いて妻がやって来た。顔の痩せが目に立って、色が真ッ青だ。僕は、これまでのことが一時に胸に浮んで、ぎょッとせざるを得なかった。「馬鹿ッ!――馬鹿野郎・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・長尻の男だからドコへ行っても長かったが、何処でも俥を待たして置いたから、緑雨の来ているのは伴待や玄関や勝手で長々と臥そべってる緑雨の車夫で直ぐ解った。緑雨の車夫は恐らく主人を乗せて駈ける時間よりも待ってて眠る時間の方が長かったろう。緑雨は口・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・いや、無学文盲で将棋のほかには何にも判らず、世間づきあいも出来ず、他人の仲介がなくてはひとに会えず、住所を秘し、玄関の戸はあけたことがなく、孤独な将棋馬鹿であった坂田の一生には、随分横紙破りの茶目気もあったし、世間の人気もあったが、やはり悲・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開けて、例の立退き請求の三百が、玄関の開いてた障子の間から、ぬうっと顔を突出した。「まあお入りなさい」彼は少し酒の気の廻っていた処なので、坐ったなり元気好く声をかけた。「否もうこゝで結構です・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫