・・・そうなりゃ香奠になるんだね。ほほほほほ。香奠なら生きてるうちのことさ。此糸さん、初紫さん、香奠なら今のうちにおくんなさいよ。ほほ、ほほほほ」「あ、忘れていたよ。東雲さんとこへちょいと行くんだッけ」と、初緑が坐を立ちながら、「吉里さん、お・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 自分はちっとも心に誰という明かな感じもなく、従って、真面目にさほどの悲しみをも感じない空な名に、御香奠を送る気にはなれなかった。何だか嘘で、自分はただ出せと云われた金を出したという心持ばかりがする。 漠然と、誰かが死んだというだけ・・・ 宮本百合子 「追想」
・・・そこで、工面をし、机の引出しから友達の香典がえしに貰った黒縮緬の袱紗を出した。それを二つにたたみ、鼻の上まで額からかぶる。地がよい縮緬なので、硝子は燦く朝なのに、私の瞼の上にだけは濃い暗い夜が出来る。眠り足らず、幾分過敏になりかけていた神経・・・ 宮本百合子 「春」
・・・下々の者は御香奠を拝領する。 儀式はとどこおりなく済んだが、その間にただ一つの珍事が出来した。それは阿部権兵衛が殉死者遺族の一人として、席順によって妙解院殿の位牌の前に進んだとき、焼香をして退きしなに、脇差の小柄を抜き取って髻を押し切っ・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫