・・・春雨の格子戸に渋蛇の目開きかける様子といい、長火鉢の向うに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐれ襟に埋める頤といい、さては唯風に吹かれる髪の毛の一筋、そら解けの帯の端にさえ、いうばかりなき風情が生ずる。「ふぜい」とは何ぞ。芸術的洗練を・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・なるほど洋琴の音もやみ、犬の声もやみ、鶏の声、鸚鵡の声も案のごとく聞えなくなったが下層にいるときは考だに及ばなかった寺の鐘、汽車の笛さては何とも知れず遠きより来る下界の声が呪のごとく彼を追いかけて旧のごとくに彼の神経を苦しめた。 声。英・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・髪の色、眼の色、さては眉根鼻付から衣装の末に至るまで両人共ほとんど同じように見えるのは兄弟だからであろう。 兄が優しく清らかな声で膝の上なる書物を読む。「我が眼の前に、わが死ぬべき折の様を想い見る人こそ幸あれ。日毎夜毎に死なんと願え・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・たるにあらず、その平生において、男女品行上のことをば至って手軽に心得、ただ芸妓の容姿を悦び、美なること花の如しなどとて、徳義上の死物たる醜行不倫の女子も、潔清上品なる良家の令嬢も大同小異の観をなして、さては右の如き大間違いに陥りたるものなら・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ 同じ人物でありながら、この三人ずつの一組は、鳥居の外から中央に至り、さては上手の端の牛飼童に終る一群の人々とは、何と別様に扱われていることだろう。 画家は、画面のリズムの快よい流れの末としてこの六人を見ている。そのために、鳥居とそ・・・ 宮本百合子 「あられ笹」
・・・ 大賑やかなガヤガヤがぴったりしずまった。「誰か、きょう、地下室のガラス窓にボールをぶつけてこわした人があります」 さては、お小言か。こわした者は出ていらっしゃいと、わたしどもが小学校でやられた時の通りに進むかと思っていると、ソ・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・それはそれとして、夜陰に剣戟を執って、多人数押し寄せて参られ、三門を開けと言われた。さては国に大乱でも起ったか、公の叛逆人でも出来たかと思うて、三門をあけさせた。それになんじゃ。御身が家の下人の詮議か。当山は勅願の寺院で、三門には勅額をかけ・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ ここは四方の壁に造りつけたる白石の棚に、代々の君が美術に志ありてあつめたまいぬる国々のおお花瓶、かぞうる指いとなきまで並べたるが、乳のごとく白き、琉璃のごとく碧き、さては五色まばゆき蜀錦のいろなるなど、蔭になりたる壁より浮きいでて美わ・・・ 森鴎外 「文づかい」
・・・「まだ、さては伝え聞きなさらぬか。堯寛にあざむかれなされて、あえなくも底の藻屑と……矢口で」「それ、さらば実でおじゃるか。それ詐偽ではおじゃらぬか」「何を……など詐偽でおじゃろうぞ」 よもやと思い固めたことが全く違ッてしまっ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・不思議な奴だ。さては、俺の知らぬ間に、こっそりやったと見えるな。」「あの百合の花を、この部屋から出して。」と妻はいった。 百合の匂いは他の花の匂いを殺してしまう。――「そうだ、この花は、英雄だ。」 彼は百合を攫むと部屋の外へ・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫