・・・その諦めもほんの上っ面のもので、衷心に存する不平や疑惑を拭い去る力のあるものではない。しかたがないからという諦めである。三 ここまで回顧して来て、いつも思い悩むのはその奥である。何が自分をして諦めさせるのだろう。私に取っては・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
徳富猪一郎君は肥後熊本の人なり。さきに政党の諸道に勃興するや、君、東都にありて、名士の間を往来す。一日余の廬を過ぎ、大いに時事を論じ、痛歎して去る。当時余ひそかに君の気象を喜ぶ。しかるにいまだその文筆あるを覚らざるなり。・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・ 老いたるカトンは、サルジニア総督時代には、徒歩で巡視をした。お供と云えば唯国の役人を一人つれたきりで、いや最も屡々、自分で行李を持って歩いた。彼は、一エキュ以上する着物を着たことがない、一日に一文以上市場に払ったことがない、と自慢した・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・「生を棄てて逃げ去るのは罪悪だと人は言う。しかし、僕に死を禁ずるその同じ詭弁家が時には僕を死の前にさらしたり、死に赴かせたりするのだ。彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定・・・ 太宰治 「織田君の死」
・・・気の永いアインシュタインもかなり不愉快を感じたと見えて、急にベルリンを去ると云い出した。するとベルリン大学に居る屈指の諸大家は、一方アインシュタインをなだめると同時に、連名で新聞へ弁明書を出し、彼に対する攻撃の不当な事を正し、彼の科学的貢献・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・今年下総葛飾の田園にわたくしは日ごとに烈しくなる風の響をききつつ光陰の早く去るのに驚いている。岡山にいたのは、その時には長いように思われていたが、実は百日に満たなかった。熱海の小春日和は明るい昼の夢のようであった。 一たび家を失ってより・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・敏捷な赤蠅はけはいを覗って飛び去るので容易に捕ることが出来ない。太十は朝まだ草葉の露のあるうちに灰を挂けて置いたりして培養に意を注いだ。やがて畑一杯に麦藁が敷かれた。蔓は其上を偃った。蔓の末端は斜に空を向いて快げである。繊巧な模様のような葉・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から白金の糸を長く引いて一匹の蜘蛛が――すこぶる雅だ。「蓮の葉に蜘蛛下りけり香を焚く」と吟じながら女一度に数弁を攫んで香炉の裏になげ込む。「蛸懸不揺、篆煙遶竹梁」と誦して髯ある男も、見ているままで払わん・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。 死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、古人もいったように、親の愛はまことに愚痴である、冷静に外より見たならば、たわいない愚痴・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・お熊が言ッた通り、平田も今夜はもう去るんだと見えるな。座敷が明いたら入れてくれるか知らん。いい、そんなことはどうでもいい。座敷なんかどうでもいいんだ。ちょいとでも一しょに寝て、今夜ッきり来ないことを一言断りゃいいんだ。もう今夜ッきりきッと来・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫