・・・哲学がそれを謳歌し、宗教がそれを賛美し、人間のことはそれで遺憾のないように説いている。 自分は今つくづくとわが子の死に顔を眺め、そうして三日の後この子がどうなるかと思うて、真にわが心の薄弱が情けなくなった。わが生活の虚偽残酷にあきれてし・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 牧師が賛美歌の番号を知らすと、堂のすみから、ものものしい重い、低い調子でオルガンの一くさり、それを合図に一同が立つ。そして男子の太い声と婦人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低が巧妙な楽器に導かれるのです、そして「たえなるめぐみ」・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・いかなるイデアリストの詩人、思想家も、彼が童貞を失った後にそれ以前のような至醇なる恋愛賛美が書けるはずはない。自分の例を引けば、「異性の内に自己を見出さんとする心」を書いたとき私はまだ童貞であった。性交を賛美しつつも、童貞であったのだ。・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・そんな古人の句の酸鼻が、胸に焦げつくほどわかるのだ。私は、人間の資格をさえ、剥奪されていたのである。 私は、いま、事実を誇張して書いてはいけない。充分に気をつけて書いているのであるから、読者も私を信用していいと思う。れいのひとりよがりの・・・ 太宰治 「鴎」
・・・見れば、見るほど、酸鼻の極である。ポチも、いまはさすがに、おのれの醜い姿を恥じている様子で、とかく暗闇の場所を好むようになり、たまに玄関の日当りのいい敷石の上で、ぐったり寝そべっていることがあっても、私が、それを見つけて、「わあ、ひでえ・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・こうして、じりじり進んでいって、いるうちに、いつとはなしに自滅する酸鼻の谷なのではあるまいか。ああ、声あげて叫ぼうか。けれども、むざんのことには、笠井さん、あまりの久しい卑屈に依り、自身の言葉を忘れてしまった。叫びの声が、出ないのである。走・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・陰惨、酸鼻の気配に近い。 鶴は、厠の窓から秋のドオウンの凄さを見て、胸が張り裂けそうになり、亡者のように顔色を失い、ふらふら部屋へ帰り、口をあけて眠りこけているスズメの枕元にあぐらをかき、ゆうべのウイスキイの残りを立てつづけにあおる。・・・ 太宰治 「犯人」
・・・そのメロディーは実に昔の日本の婦人の理想とされた限りなき忍従の徳を賛美する歌を歌っていたようなものかもしれない。 右手と左手との運動を巧みに対応させコーオルディネートさせる呼吸がなかなかむつかしいもので、それができないと紡がれた糸は太さ・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・ 六万の観客中には、シネマ俳優としてのベーアの才能と彼のいろいろなセンチメンタル・アドヴェンチュアとを賛美する一万の婦人がいてはなやかな喝采を送ったそうである。 友人たちとこの映画のうわさをしていたとき、居合わせたK君は、坊間所伝の・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・ピストルの弾を乱発させるという卑怯千万な行為であるにかかわらず、観客の頭にはあらかじめ被殺害者に対する憎悪という魔薬が注射されているから、かえって一種の痛快な感じをいだかせ、この殺人があたかも道徳的に賛美すべきものであるような錯覚を起こさせ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
出典:青空文庫